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ひゃっはー
久々にバーで飲んできたぞえーwww
すきっ腹にバーボンロック流し込むと一杯でいい具合になれますですはい。
プリベル20話 あと2P~
ほぼ終了~ ほぼ終了だから飲んで た
ウィスキー うまか た
かゆ うま
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14557963?mypage_nicorepo
ほむほむまじほむほむ。
金をかける少女。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14668362?mypage_nicorepo
なんだ実写か。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14488520?mypage_nicorepo
マミさーーーん
すきっ腹にバーボンロック流し込むと一杯でいい具合になれますですはい。
プリベル20話 あと2P~
ほぼ終了~ ほぼ終了だから飲んで た
ウィスキー うまか た
かゆ うま
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14557963?mypage_nicorepo
ほむほむまじほむほむ。
金をかける少女。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14668362?mypage_nicorepo
なんだ実写か。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14488520?mypage_nicorepo
マミさーーーん
だいぶ生活リズムが戻ってきました
朝ちゃんとファミレスで和食食うようにしたらだいぶ戻ってきた感じです。
まだ集中力はもどらんし眠気は消えないけど・・・
今日あたりで完全に戻りそう。
やっぱ生活リズムと朝食とかって大事だね。
集中力も多少戻ってきてそれなりに順調に進んでます。
明日居合刀が届く予定です。
真っ当な居合刀一振りと安い脇差一振り。
二刀流の練習もできるのぜ。
ひさびさだなー・・・握るの・・・
普段木刀しか触ってないから・・・・
木刀だと刃筋とかそういうのがいまいちわかんなくて。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13727876?mypage_nicorepo
関係ないんだけどこれ面白い。
人力パワードスーツ(?)
パワーアップはしないというかむしろ弱くなってるけど。
ただ動作が拡大した分、リーチが長くなりスピードが出る上相当な重量増加のはずなので
パンチ力は凶器レベルに上がってると思う。
実際に使う気にはなれないけど漫画的な武器にしたら面白いかも。
ところで最近民主党が素晴らしいと思うようになってきました。
もちろん反面教師的な意味で。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14496465?mypage_nicorepo
やっぱあれだ。
ああいうなんか「理想に見える妄想で浮っついた人間」と「嘘吐き」は
上下左右方向性を問わず何やってもダメなんだな。
思考の土台が現実に根差してなかったり基本的に表面だけで中身がないから
何やってもどんだけ繕っても全部裏目。
一時成功しても決して続かない。
昔話に出てくる年寄りの説教ってやっぱ真実ついてるよ。うん。
80年だの90年だの生きてきたジジババが寄ってたかって何代にもわたって
「結局これが正解」と判断してきたがゆえの「年寄りの説教」だもんねぇ・・・
俺もああならんよう気を付けよ。
追記
居合刀キター!!
やっぱ木刀とは握った感触と振った感触が全然違う。
刃筋が立ってる時と立ってないときの音も。
重量もずっしりしてるので下手なダンベルよりいい感じ。
安いほうの脇差も刀身の素材が違うというのに
分からんほどにいい感じ。
以前通ってた剣道場にあった居合刀より上質な気がする。
いや相当昔の話だから分からんけど。
毎朝これでいろいろ研究しながら運動します。
とりあえず課題は刺突における予備動作の縮小と
正確に刃筋を立てた斬撃の練習。
剣道とは刀の使い方が全然違うので
振ってて楽しいです。
まだ集中力はもどらんし眠気は消えないけど・・・
今日あたりで完全に戻りそう。
やっぱ生活リズムと朝食とかって大事だね。
集中力も多少戻ってきてそれなりに順調に進んでます。
明日居合刀が届く予定です。
真っ当な居合刀一振りと安い脇差一振り。
二刀流の練習もできるのぜ。
ひさびさだなー・・・握るの・・・
普段木刀しか触ってないから・・・・
木刀だと刃筋とかそういうのがいまいちわかんなくて。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13727876?mypage_nicorepo
関係ないんだけどこれ面白い。
人力パワードスーツ(?)
パワーアップはしないというかむしろ弱くなってるけど。
ただ動作が拡大した分、リーチが長くなりスピードが出る上相当な重量増加のはずなので
パンチ力は凶器レベルに上がってると思う。
実際に使う気にはなれないけど漫画的な武器にしたら面白いかも。
ところで最近民主党が素晴らしいと思うようになってきました。
もちろん反面教師的な意味で。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14496465?mypage_nicorepo
やっぱあれだ。
ああいうなんか「理想に見える妄想で浮っついた人間」と「嘘吐き」は
上下左右方向性を問わず何やってもダメなんだな。
思考の土台が現実に根差してなかったり基本的に表面だけで中身がないから
何やってもどんだけ繕っても全部裏目。
一時成功しても決して続かない。
昔話に出てくる年寄りの説教ってやっぱ真実ついてるよ。うん。
80年だの90年だの生きてきたジジババが寄ってたかって何代にもわたって
「結局これが正解」と判断してきたがゆえの「年寄りの説教」だもんねぇ・・・
俺もああならんよう気を付けよ。
追記
居合刀キター!!
やっぱ木刀とは握った感触と振った感触が全然違う。
刃筋が立ってる時と立ってないときの音も。
重量もずっしりしてるので下手なダンベルよりいい感じ。
安いほうの脇差も刀身の素材が違うというのに
分からんほどにいい感じ。
以前通ってた剣道場にあった居合刀より上質な気がする。
いや相当昔の話だから分からんけど。
毎朝これでいろいろ研究しながら運動します。
とりあえず課題は刺突における予備動作の縮小と
正確に刃筋を立てた斬撃の練習。
剣道とは刀の使い方が全然違うので
振ってて楽しいです。
これいい案じゃね?

今回の震災で津波対策の重要性が浮き彫りになったものの
30m以上の津波に対して防波堤ですべて食い止めるなどは
少々現実味が薄いと思われます。
そこで「タスカルタワー」を参考に面白いの考えました。
「対津波用浮遊型避難施設」。
タスカルタワーに敬意を表して
タスカル箱船とでも名付けましょうか。
単に50mほどのワイヤーでつながれた浮遊体です。
材質は鉄などで非常に簡潔な形状にすることによって大量生産を容易にし
価格を押し下げます。
津波に対して即座に避難できるよう
個人宅はもちろん、公共施設など人が多く集まるところには大型のものを
十分避難できる数を設置。
こいつのいいところは津波の高さに影響を受けない点です。
10mの津波でも30mの津波でも同じように避難でき
タスカルタワーや家屋の2階のようにそれ以上来たらアウトということがありません。
50mや100m以上の津波の場合ワイヤーを内部から切断、完全に浮遊できます。
問題点としては津波に流されてどこかに衝突したら危険なので
設置場所は多少選ばなければならないという点でしょうか
周辺にタグボートのようにタイヤをくくりつける必要もありそうですね。
また転覆対策も考えてひっくり返っても浮く、
あるいはひっくり返ってもすぐ戻る様に作る必要があると思われます。
またいっそのこと新たに海岸沿いに建てる家は
全て浮遊できるよう箱舟構造にしてしまうというのもありかもしれません。
住まいそのものが船であり町ごと浮遊する対津波都市。
電線も水道も屋根の上通ってるとか。
流石に無理かな。
目指せ津波死者ゼロ。
ハーバード白熱教室読了。
読み終わってはっきりわかったんですが
アレだね。
今の「哲学」ってのは錬金術だね。
不老不死の薬や賢者の石の存在を信じてそれに向けてあらゆることを試した錬金術のように
何か宙に浮いた絶対的な真理や正義や善性があると信じてそれに向けてあらゆる論理を試す哲学はそっくりです。
これじゃあ哲学といえば
「なんか答えも出ないことを延々だらだら難解な言葉を駆使して真面目な顔して話してる頭のいいバカのお遊戯」
みたいな白い目で見られたり敬遠されたりしてるのも当然です。
前提に絶対真理的な何かがあると「信じて」やってる時点で宗教だもの。錬金術だもの。
でも無駄とは言いません。
錬金術が現代科学の礎となったように今の哲学も現代哲学?(今命名)の礎となるでしょう。
いろいろ勉強になりました。ハーバード白熱教室。
ただまぁそろそろさぁ・・・
アリストテレスとかの時代からずーっとやってんだから
いい加減宗教的なレベルから降りてきて地に足着いた哲学を始めてもいいんじゃねーのと思うけどね。
あらかじめあるはずだと「信じた」何かを探すのが錬金術的哲学なら
ありのままを感情も信仰も排して観察しそこから順を追うのが現代科学的哲学といえましょう。
錬金術が否定され現代科学が発達して
雷は「神の怒り」から「放電現象」に
太陽は「神そのもの」から「水素の塊」になったように
「善や正義」は「都合や快不快の電気信号」になるでしょうが
もっと地に足着いた「強靭」な哲学が手に入るはずです。
逆に地から浮遊した、まるで天から授けられたかのようにポンと存在する善性や正義があると「信じてる」限り
この先何億年続けても永遠に答えが出ないまま宗教的錬金術を続けることになりますがね。
しかしまぁ久しぶりにいい本読んだなぁ・・・・
アレだね。
今の「哲学」ってのは錬金術だね。
不老不死の薬や賢者の石の存在を信じてそれに向けてあらゆることを試した錬金術のように
何か宙に浮いた絶対的な真理や正義や善性があると信じてそれに向けてあらゆる論理を試す哲学はそっくりです。
これじゃあ哲学といえば
「なんか答えも出ないことを延々だらだら難解な言葉を駆使して真面目な顔して話してる頭のいいバカのお遊戯」
みたいな白い目で見られたり敬遠されたりしてるのも当然です。
前提に絶対真理的な何かがあると「信じて」やってる時点で宗教だもの。錬金術だもの。
でも無駄とは言いません。
錬金術が現代科学の礎となったように今の哲学も現代哲学?(今命名)の礎となるでしょう。
いろいろ勉強になりました。ハーバード白熱教室。
ただまぁそろそろさぁ・・・
アリストテレスとかの時代からずーっとやってんだから
いい加減宗教的なレベルから降りてきて地に足着いた哲学を始めてもいいんじゃねーのと思うけどね。
あらかじめあるはずだと「信じた」何かを探すのが錬金術的哲学なら
ありのままを感情も信仰も排して観察しそこから順を追うのが現代科学的哲学といえましょう。
錬金術が否定され現代科学が発達して
雷は「神の怒り」から「放電現象」に
太陽は「神そのもの」から「水素の塊」になったように
「善や正義」は「都合や快不快の電気信号」になるでしょうが
もっと地に足着いた「強靭」な哲学が手に入るはずです。
逆に地から浮遊した、まるで天から授けられたかのようにポンと存在する善性や正義があると「信じてる」限り
この先何億年続けても永遠に答えが出ないまま宗教的錬金術を続けることになりますがね。
しかしまぁ久しぶりにいい本読んだなぁ・・・・
なぜ哲学者は根源を追求する作業をしないんだ?
例の「ハ-バード白熱~」を読み進めてるんですが
なんで哲学者ってのは根源を追求する作業をしないんでしょうね。
例えば本の中にも毎回出てくる「いい」「悪い」「道徳」という言葉ですが
「いい」「悪い」「道徳」とはそもそもなんなのかを追及せずして論じても
「俺はこれが気に食わない」「いやこっちが気に食わない」
という単なる気に入るかどうかを言い合うだけになり
結果この本のように何の結論も出すことなく終わってしまう。
まぁ勉強にはなるんだけど。
例えるなら地盤どころか既存の建物を検査することさえなしに
その既存の建物の上に天空の目標地点「真実」を目指して新たな建物を建てるような行為に見えます。
あっちにつつかれこっちにつつかれ地盤が崩れグラグラするたびに
無理やり補強したり論旨をすり替えたりしながら
どうして完璧な建物ができないんだろうと首をかしげてるような感じ。
まずは地盤調査で確固たる「地盤」を見つけずにおいてどんな建物だって成り立たんと思うんですがね。
カントだのなんだのといった著名な哲学者でさえそんなうわっついたことをしてる。
あらかじめ定められた天から与えられたかのような正義や真実や道徳があるという宗教的な前提に立って
どんな理論を組み立てようとカントのように難解な新言語や新概念を次々生み出して訳わからなくなるだけでしょうに。
例えば善悪や道徳といったモノが何であるのか知るには
まずそれが発生した原初を考えなければなりません。
人間がサルであった頃善悪や道徳はあったか?言葉にはせずともあったかもしれない。
裏切り者や泥棒は処刑されたり罰を受けたりといった形で存在したかと思われる。
ではもっと前、サルがサルとして社会生活を始める前の、
氷河期が終わったばかりでネズミのような小型哺乳類だったころ
道徳や善悪はあったか?親子兄弟の間であったかもしれない。
仲間を攻撃するような都合の悪い個体や働かない個体は排除されたかもしれない。
ではもっと遥かさかのぼってピカイアのような脊椎動物の祖先だったころはあったか?
いやおそらくなかった。
もうそこまでいったら魚同様に産んだら産みっぱなし、同族であっても関連性はなく
単に食うか食われるかしかない、善も悪も道徳も糞もない純然たる生命その一だったと思われる。
こうして見ると善悪や道徳といったものが「社会」「社会性」から発生したものであることが分かる。
天から神に命ぜられてこれが善である、これが悪であると教えられたわけではない。
そうして自然発生的に成立するものということは善悪、道徳とはすなわち「都合」といえる。
個体においてではなくその社会、共同体にとっての「都合」。
それが善悪や道徳の正体といえます。
「いい」「善」とは共同体にとって「都合がいい」ということ。
「悪い」「悪」とは共同体にとって「都合が悪い」ということ。
これは「行為」においても「性質」においても同じことが言えます。
善人とは共同体にとって都合のいい性質をもった人間。
悪人とは共同体にとって都合の悪い性質をもった人間。
道徳とは共同体にとって都合のいい性質をまとめた指標のようなもの。
ではもっと掘り下げて「都合」とはなんだろうか。
「都合」は人間でなくても、それこそネズミだったころ、ミジンコ並みの原始的生物だったころから
言語として認識はせずとも存在していたものでしょう。
「捕食者」がやってくるのは都合が悪い。「エサ」があったら都合がいい。
「よく餌を持ってくる仲間」は都合がいい。「仲間に噛みつく仲間」は都合が悪い
ネズミはおろかミジンコやゾウリムシ程度の知能でも判別できる「都合」とはなんでしょうか。
そこまで簡略にとらえうるものといえば「快か不快か」くらいしかありません。
都合とは「快」「不快」という電気信号です。
「快」であるものは都合がよく「不快」であるものは都合が悪い。
生物が認識できる信号を最小レベルまで分解すればそれは「快」「不快」の2種類に行きつくと思います。
反論やさらに分解が可能だという方は是非ご意見ください。
人間というか生物のあらゆる感情や行動は結局のところ「快」か「不快」の二進法に集約されます。
無数の快と不快が集まって様々な感情や思考、さらには宗教さえも生み出しているわけですね。
まるで「0」と「1」「オンかオフか」の二進法だけで無数のプログラムを実行するパソコンのようです。
「都合」「快と不快」なので時代や地域によって善悪や道徳の基準がバラバラなのも当然というわけですね。
ここまで突き詰めると大体のことは分かってきます。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか?」
という問いに対して
共同体にとって都合が悪いからと答えられます。
では「殺人」はどの社会においても「悪」である。
しかし、殺人鬼が子供を殺そうとしたところ、
殺人鬼を殺して子供を助けたならそれは英雄的行為であり善である。
紛れもなく「殺人」でありながら善なのである。
なぜ殺人鬼が子供を殺すのは悪なのにその殺人鬼を殺すのは善なのか?
という問いかけにも
善悪とは共同体にとっての都合である。
殺人鬼が子供を殺すのは「共同体にとって都合が悪いから」
殺人鬼を殺すのは「共同体にとって都合がいいから」。
なお都合とは「快か不快か」ということである。
と答えることができます。
「ハーバード~」に出てきた例題として
漂流する5人が一人を殺して食べ4人が生き残った。
殺して食べなければ全員が死んだかもしれない。
これは善か悪か。
という問いにも
共同体としてはより多くが生き残ったので4人の行為は善(共同体にとって都合がいい)である。
しかし自分のために同属を殺した4人の行為は悪(共同体にとって都合が悪い)である。
よって一概に善悪を断ずることはできない。
と善悪が混合するケースであることを理解し答えることができます。
漫画に出てきそうな
「愛する誰かのために世界を滅ぼそうとする人物」
「世界を救うために愛する誰かを平然と殺す人物」に対して
上記は完全に敵でありながら憎み切れない、
下記は完全に味方であり命の恩人でありながら好きになれない
といった感想を持つかと思いますが
これも共同体にとって悪である。しかしその性質は善である。
共同体にとって善である。しかし性質は悪である。という
両方を持ったケースです。
人間は生まれながらにして公平ではない。
生まれ持った才能や経済状況ゆえに差がつくことを許していいのか。
基本的教育や累進課税だけでは足りない。
人は平等であるべきである。という平等主義に対して
また、人は自由である。
彼が自らの努力で得たものを再配分することは泥棒と同義である。
そんなことを許していいのか。
政府は最低限の役目を果たす小さな政府であるべきである。
という自由主義に対して
どっちも良いも悪いもない。状況と都合は常に変わる。
善悪もそれに合わせて変わる。
にも拘らず「画一的な主義を持った」その一点においてどちらも間違っていると答えられます。
とまぁこういう前提があるので私は
政治哲学において功利主義だとか自由主義だとか共産主義だとかそんなものはどうでもよい。
国家の使命は国民の利益を最大化することである。
功利主義とは異なりこの利益とは金銭、財産だけではなく精神的な快不快をも内包する。
より多くが最大限「快」を示し、多数発生するであろう例外においては
より多くが「快」を示す例外を設ける。
すなわち人間が猿のころから自然に行ってきた基本的方針「うまい具合にする」ということである。
敢えて主義というなら「現実主義」。
「快不快」は時代や風習民族性、その時々の流行り廃りや状況においても異なる。
最善も状況が常に変わるため常に異なる。
画一的にこれが最善という指針は存在しえない。
ゆえに現実主義を根底におかず何らかの画一的指針(いかなる状況下でも小さな政府、いかなる状況下でも大きな政府など)を根底にすえてしまったあらゆる主義、宗教は間違いである。
どのような善性に基づいていようと必ず破綻し害悪をまき散らす「共同体にとって都合が悪いモノ」。
すなわち「悪」である。
と回答するわけですが。
カントへの一言
「宗教という人間社会から生まれたあぶくの上に建物をたてるとそうなる」
なんで哲学者ってのは根源を追求する作業をしないんでしょうね。
例えば本の中にも毎回出てくる「いい」「悪い」「道徳」という言葉ですが
「いい」「悪い」「道徳」とはそもそもなんなのかを追及せずして論じても
「俺はこれが気に食わない」「いやこっちが気に食わない」
という単なる気に入るかどうかを言い合うだけになり
結果この本のように何の結論も出すことなく終わってしまう。
まぁ勉強にはなるんだけど。
例えるなら地盤どころか既存の建物を検査することさえなしに
その既存の建物の上に天空の目標地点「真実」を目指して新たな建物を建てるような行為に見えます。
あっちにつつかれこっちにつつかれ地盤が崩れグラグラするたびに
無理やり補強したり論旨をすり替えたりしながら
どうして完璧な建物ができないんだろうと首をかしげてるような感じ。
まずは地盤調査で確固たる「地盤」を見つけずにおいてどんな建物だって成り立たんと思うんですがね。
カントだのなんだのといった著名な哲学者でさえそんなうわっついたことをしてる。
あらかじめ定められた天から与えられたかのような正義や真実や道徳があるという宗教的な前提に立って
どんな理論を組み立てようとカントのように難解な新言語や新概念を次々生み出して訳わからなくなるだけでしょうに。
例えば善悪や道徳といったモノが何であるのか知るには
まずそれが発生した原初を考えなければなりません。
人間がサルであった頃善悪や道徳はあったか?言葉にはせずともあったかもしれない。
裏切り者や泥棒は処刑されたり罰を受けたりといった形で存在したかと思われる。
ではもっと前、サルがサルとして社会生活を始める前の、
氷河期が終わったばかりでネズミのような小型哺乳類だったころ
道徳や善悪はあったか?親子兄弟の間であったかもしれない。
仲間を攻撃するような都合の悪い個体や働かない個体は排除されたかもしれない。
ではもっと遥かさかのぼってピカイアのような脊椎動物の祖先だったころはあったか?
いやおそらくなかった。
もうそこまでいったら魚同様に産んだら産みっぱなし、同族であっても関連性はなく
単に食うか食われるかしかない、善も悪も道徳も糞もない純然たる生命その一だったと思われる。
こうして見ると善悪や道徳といったものが「社会」「社会性」から発生したものであることが分かる。
天から神に命ぜられてこれが善である、これが悪であると教えられたわけではない。
そうして自然発生的に成立するものということは善悪、道徳とはすなわち「都合」といえる。
個体においてではなくその社会、共同体にとっての「都合」。
それが善悪や道徳の正体といえます。
「いい」「善」とは共同体にとって「都合がいい」ということ。
「悪い」「悪」とは共同体にとって「都合が悪い」ということ。
これは「行為」においても「性質」においても同じことが言えます。
善人とは共同体にとって都合のいい性質をもった人間。
悪人とは共同体にとって都合の悪い性質をもった人間。
道徳とは共同体にとって都合のいい性質をまとめた指標のようなもの。
ではもっと掘り下げて「都合」とはなんだろうか。
「都合」は人間でなくても、それこそネズミだったころ、ミジンコ並みの原始的生物だったころから
言語として認識はせずとも存在していたものでしょう。
「捕食者」がやってくるのは都合が悪い。「エサ」があったら都合がいい。
「よく餌を持ってくる仲間」は都合がいい。「仲間に噛みつく仲間」は都合が悪い
ネズミはおろかミジンコやゾウリムシ程度の知能でも判別できる「都合」とはなんでしょうか。
そこまで簡略にとらえうるものといえば「快か不快か」くらいしかありません。
都合とは「快」「不快」という電気信号です。
「快」であるものは都合がよく「不快」であるものは都合が悪い。
生物が認識できる信号を最小レベルまで分解すればそれは「快」「不快」の2種類に行きつくと思います。
反論やさらに分解が可能だという方は是非ご意見ください。
人間というか生物のあらゆる感情や行動は結局のところ「快」か「不快」の二進法に集約されます。
無数の快と不快が集まって様々な感情や思考、さらには宗教さえも生み出しているわけですね。
まるで「0」と「1」「オンかオフか」の二進法だけで無数のプログラムを実行するパソコンのようです。
「都合」「快と不快」なので時代や地域によって善悪や道徳の基準がバラバラなのも当然というわけですね。
ここまで突き詰めると大体のことは分かってきます。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか?」
という問いに対して
共同体にとって都合が悪いからと答えられます。
では「殺人」はどの社会においても「悪」である。
しかし、殺人鬼が子供を殺そうとしたところ、
殺人鬼を殺して子供を助けたならそれは英雄的行為であり善である。
紛れもなく「殺人」でありながら善なのである。
なぜ殺人鬼が子供を殺すのは悪なのにその殺人鬼を殺すのは善なのか?
という問いかけにも
善悪とは共同体にとっての都合である。
殺人鬼が子供を殺すのは「共同体にとって都合が悪いから」
殺人鬼を殺すのは「共同体にとって都合がいいから」。
なお都合とは「快か不快か」ということである。
と答えることができます。
「ハーバード~」に出てきた例題として
漂流する5人が一人を殺して食べ4人が生き残った。
殺して食べなければ全員が死んだかもしれない。
これは善か悪か。
という問いにも
共同体としてはより多くが生き残ったので4人の行為は善(共同体にとって都合がいい)である。
しかし自分のために同属を殺した4人の行為は悪(共同体にとって都合が悪い)である。
よって一概に善悪を断ずることはできない。
と善悪が混合するケースであることを理解し答えることができます。
漫画に出てきそうな
「愛する誰かのために世界を滅ぼそうとする人物」
「世界を救うために愛する誰かを平然と殺す人物」に対して
上記は完全に敵でありながら憎み切れない、
下記は完全に味方であり命の恩人でありながら好きになれない
といった感想を持つかと思いますが
これも共同体にとって悪である。しかしその性質は善である。
共同体にとって善である。しかし性質は悪である。という
両方を持ったケースです。
人間は生まれながらにして公平ではない。
生まれ持った才能や経済状況ゆえに差がつくことを許していいのか。
基本的教育や累進課税だけでは足りない。
人は平等であるべきである。という平等主義に対して
また、人は自由である。
彼が自らの努力で得たものを再配分することは泥棒と同義である。
そんなことを許していいのか。
政府は最低限の役目を果たす小さな政府であるべきである。
という自由主義に対して
どっちも良いも悪いもない。状況と都合は常に変わる。
善悪もそれに合わせて変わる。
にも拘らず「画一的な主義を持った」その一点においてどちらも間違っていると答えられます。
とまぁこういう前提があるので私は
政治哲学において功利主義だとか自由主義だとか共産主義だとかそんなものはどうでもよい。
国家の使命は国民の利益を最大化することである。
功利主義とは異なりこの利益とは金銭、財産だけではなく精神的な快不快をも内包する。
より多くが最大限「快」を示し、多数発生するであろう例外においては
より多くが「快」を示す例外を設ける。
すなわち人間が猿のころから自然に行ってきた基本的方針「うまい具合にする」ということである。
敢えて主義というなら「現実主義」。
「快不快」は時代や風習民族性、その時々の流行り廃りや状況においても異なる。
最善も状況が常に変わるため常に異なる。
画一的にこれが最善という指針は存在しえない。
ゆえに現実主義を根底におかず何らかの画一的指針(いかなる状況下でも小さな政府、いかなる状況下でも大きな政府など)を根底にすえてしまったあらゆる主義、宗教は間違いである。
どのような善性に基づいていようと必ず破綻し害悪をまき散らす「共同体にとって都合が悪いモノ」。
すなわち「悪」である。
と回答するわけですが。
カントへの一言
「宗教という人間社会から生まれたあぶくの上に建物をたてるとそうなる」