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なぜ哲学者は根源を追求する作業をしないんだ?
例の「ハ-バード白熱~」を読み進めてるんですが
なんで哲学者ってのは根源を追求する作業をしないんでしょうね。
例えば本の中にも毎回出てくる「いい」「悪い」「道徳」という言葉ですが
「いい」「悪い」「道徳」とはそもそもなんなのかを追及せずして論じても
「俺はこれが気に食わない」「いやこっちが気に食わない」
という単なる気に入るかどうかを言い合うだけになり
結果この本のように何の結論も出すことなく終わってしまう。
まぁ勉強にはなるんだけど。
例えるなら地盤どころか既存の建物を検査することさえなしに
その既存の建物の上に天空の目標地点「真実」を目指して新たな建物を建てるような行為に見えます。
あっちにつつかれこっちにつつかれ地盤が崩れグラグラするたびに
無理やり補強したり論旨をすり替えたりしながら
どうして完璧な建物ができないんだろうと首をかしげてるような感じ。
まずは地盤調査で確固たる「地盤」を見つけずにおいてどんな建物だって成り立たんと思うんですがね。
カントだのなんだのといった著名な哲学者でさえそんなうわっついたことをしてる。
あらかじめ定められた天から与えられたかのような正義や真実や道徳があるという宗教的な前提に立って
どんな理論を組み立てようとカントのように難解な新言語や新概念を次々生み出して訳わからなくなるだけでしょうに。
例えば善悪や道徳といったモノが何であるのか知るには
まずそれが発生した原初を考えなければなりません。
人間がサルであった頃善悪や道徳はあったか?言葉にはせずともあったかもしれない。
裏切り者や泥棒は処刑されたり罰を受けたりといった形で存在したかと思われる。
ではもっと前、サルがサルとして社会生活を始める前の、
氷河期が終わったばかりでネズミのような小型哺乳類だったころ
道徳や善悪はあったか?親子兄弟の間であったかもしれない。
仲間を攻撃するような都合の悪い個体や働かない個体は排除されたかもしれない。
ではもっと遥かさかのぼってピカイアのような脊椎動物の祖先だったころはあったか?
いやおそらくなかった。
もうそこまでいったら魚同様に産んだら産みっぱなし、同族であっても関連性はなく
単に食うか食われるかしかない、善も悪も道徳も糞もない純然たる生命その一だったと思われる。
こうして見ると善悪や道徳といったものが「社会」「社会性」から発生したものであることが分かる。
天から神に命ぜられてこれが善である、これが悪であると教えられたわけではない。
そうして自然発生的に成立するものということは善悪、道徳とはすなわち「都合」といえる。
個体においてではなくその社会、共同体にとっての「都合」。
それが善悪や道徳の正体といえます。
「いい」「善」とは共同体にとって「都合がいい」ということ。
「悪い」「悪」とは共同体にとって「都合が悪い」ということ。
これは「行為」においても「性質」においても同じことが言えます。
善人とは共同体にとって都合のいい性質をもった人間。
悪人とは共同体にとって都合の悪い性質をもった人間。
道徳とは共同体にとって都合のいい性質をまとめた指標のようなもの。
ではもっと掘り下げて「都合」とはなんだろうか。
「都合」は人間でなくても、それこそネズミだったころ、ミジンコ並みの原始的生物だったころから
言語として認識はせずとも存在していたものでしょう。
「捕食者」がやってくるのは都合が悪い。「エサ」があったら都合がいい。
「よく餌を持ってくる仲間」は都合がいい。「仲間に噛みつく仲間」は都合が悪い
ネズミはおろかミジンコやゾウリムシ程度の知能でも判別できる「都合」とはなんでしょうか。
そこまで簡略にとらえうるものといえば「快か不快か」くらいしかありません。
都合とは「快」「不快」という電気信号です。
「快」であるものは都合がよく「不快」であるものは都合が悪い。
生物が認識できる信号を最小レベルまで分解すればそれは「快」「不快」の2種類に行きつくと思います。
反論やさらに分解が可能だという方は是非ご意見ください。
人間というか生物のあらゆる感情や行動は結局のところ「快」か「不快」の二進法に集約されます。
無数の快と不快が集まって様々な感情や思考、さらには宗教さえも生み出しているわけですね。
まるで「0」と「1」「オンかオフか」の二進法だけで無数のプログラムを実行するパソコンのようです。
「都合」「快と不快」なので時代や地域によって善悪や道徳の基準がバラバラなのも当然というわけですね。
ここまで突き詰めると大体のことは分かってきます。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか?」
という問いに対して
共同体にとって都合が悪いからと答えられます。
では「殺人」はどの社会においても「悪」である。
しかし、殺人鬼が子供を殺そうとしたところ、
殺人鬼を殺して子供を助けたならそれは英雄的行為であり善である。
紛れもなく「殺人」でありながら善なのである。
なぜ殺人鬼が子供を殺すのは悪なのにその殺人鬼を殺すのは善なのか?
という問いかけにも
善悪とは共同体にとっての都合である。
殺人鬼が子供を殺すのは「共同体にとって都合が悪いから」
殺人鬼を殺すのは「共同体にとって都合がいいから」。
なお都合とは「快か不快か」ということである。
と答えることができます。
「ハーバード~」に出てきた例題として
漂流する5人が一人を殺して食べ4人が生き残った。
殺して食べなければ全員が死んだかもしれない。
これは善か悪か。
という問いにも
共同体としてはより多くが生き残ったので4人の行為は善(共同体にとって都合がいい)である。
しかし自分のために同属を殺した4人の行為は悪(共同体にとって都合が悪い)である。
よって一概に善悪を断ずることはできない。
と善悪が混合するケースであることを理解し答えることができます。
漫画に出てきそうな
「愛する誰かのために世界を滅ぼそうとする人物」
「世界を救うために愛する誰かを平然と殺す人物」に対して
上記は完全に敵でありながら憎み切れない、
下記は完全に味方であり命の恩人でありながら好きになれない
といった感想を持つかと思いますが
これも共同体にとって悪である。しかしその性質は善である。
共同体にとって善である。しかし性質は悪である。という
両方を持ったケースです。
人間は生まれながらにして公平ではない。
生まれ持った才能や経済状況ゆえに差がつくことを許していいのか。
基本的教育や累進課税だけでは足りない。
人は平等であるべきである。という平等主義に対して
また、人は自由である。
彼が自らの努力で得たものを再配分することは泥棒と同義である。
そんなことを許していいのか。
政府は最低限の役目を果たす小さな政府であるべきである。
という自由主義に対して
どっちも良いも悪いもない。状況と都合は常に変わる。
善悪もそれに合わせて変わる。
にも拘らず「画一的な主義を持った」その一点においてどちらも間違っていると答えられます。
とまぁこういう前提があるので私は
政治哲学において功利主義だとか自由主義だとか共産主義だとかそんなものはどうでもよい。
国家の使命は国民の利益を最大化することである。
功利主義とは異なりこの利益とは金銭、財産だけではなく精神的な快不快をも内包する。
より多くが最大限「快」を示し、多数発生するであろう例外においては
より多くが「快」を示す例外を設ける。
すなわち人間が猿のころから自然に行ってきた基本的方針「うまい具合にする」ということである。
敢えて主義というなら「現実主義」。
「快不快」は時代や風習民族性、その時々の流行り廃りや状況においても異なる。
最善も状況が常に変わるため常に異なる。
画一的にこれが最善という指針は存在しえない。
ゆえに現実主義を根底におかず何らかの画一的指針(いかなる状況下でも小さな政府、いかなる状況下でも大きな政府など)を根底にすえてしまったあらゆる主義、宗教は間違いである。
どのような善性に基づいていようと必ず破綻し害悪をまき散らす「共同体にとって都合が悪いモノ」。
すなわち「悪」である。
と回答するわけですが。
カントへの一言
「宗教という人間社会から生まれたあぶくの上に建物をたてるとそうなる」
なんで哲学者ってのは根源を追求する作業をしないんでしょうね。
例えば本の中にも毎回出てくる「いい」「悪い」「道徳」という言葉ですが
「いい」「悪い」「道徳」とはそもそもなんなのかを追及せずして論じても
「俺はこれが気に食わない」「いやこっちが気に食わない」
という単なる気に入るかどうかを言い合うだけになり
結果この本のように何の結論も出すことなく終わってしまう。
まぁ勉強にはなるんだけど。
例えるなら地盤どころか既存の建物を検査することさえなしに
その既存の建物の上に天空の目標地点「真実」を目指して新たな建物を建てるような行為に見えます。
あっちにつつかれこっちにつつかれ地盤が崩れグラグラするたびに
無理やり補強したり論旨をすり替えたりしながら
どうして完璧な建物ができないんだろうと首をかしげてるような感じ。
まずは地盤調査で確固たる「地盤」を見つけずにおいてどんな建物だって成り立たんと思うんですがね。
カントだのなんだのといった著名な哲学者でさえそんなうわっついたことをしてる。
あらかじめ定められた天から与えられたかのような正義や真実や道徳があるという宗教的な前提に立って
どんな理論を組み立てようとカントのように難解な新言語や新概念を次々生み出して訳わからなくなるだけでしょうに。
例えば善悪や道徳といったモノが何であるのか知るには
まずそれが発生した原初を考えなければなりません。
人間がサルであった頃善悪や道徳はあったか?言葉にはせずともあったかもしれない。
裏切り者や泥棒は処刑されたり罰を受けたりといった形で存在したかと思われる。
ではもっと前、サルがサルとして社会生活を始める前の、
氷河期が終わったばかりでネズミのような小型哺乳類だったころ
道徳や善悪はあったか?親子兄弟の間であったかもしれない。
仲間を攻撃するような都合の悪い個体や働かない個体は排除されたかもしれない。
ではもっと遥かさかのぼってピカイアのような脊椎動物の祖先だったころはあったか?
いやおそらくなかった。
もうそこまでいったら魚同様に産んだら産みっぱなし、同族であっても関連性はなく
単に食うか食われるかしかない、善も悪も道徳も糞もない純然たる生命その一だったと思われる。
こうして見ると善悪や道徳といったものが「社会」「社会性」から発生したものであることが分かる。
天から神に命ぜられてこれが善である、これが悪であると教えられたわけではない。
そうして自然発生的に成立するものということは善悪、道徳とはすなわち「都合」といえる。
個体においてではなくその社会、共同体にとっての「都合」。
それが善悪や道徳の正体といえます。
「いい」「善」とは共同体にとって「都合がいい」ということ。
「悪い」「悪」とは共同体にとって「都合が悪い」ということ。
これは「行為」においても「性質」においても同じことが言えます。
善人とは共同体にとって都合のいい性質をもった人間。
悪人とは共同体にとって都合の悪い性質をもった人間。
道徳とは共同体にとって都合のいい性質をまとめた指標のようなもの。
ではもっと掘り下げて「都合」とはなんだろうか。
「都合」は人間でなくても、それこそネズミだったころ、ミジンコ並みの原始的生物だったころから
言語として認識はせずとも存在していたものでしょう。
「捕食者」がやってくるのは都合が悪い。「エサ」があったら都合がいい。
「よく餌を持ってくる仲間」は都合がいい。「仲間に噛みつく仲間」は都合が悪い
ネズミはおろかミジンコやゾウリムシ程度の知能でも判別できる「都合」とはなんでしょうか。
そこまで簡略にとらえうるものといえば「快か不快か」くらいしかありません。
都合とは「快」「不快」という電気信号です。
「快」であるものは都合がよく「不快」であるものは都合が悪い。
生物が認識できる信号を最小レベルまで分解すればそれは「快」「不快」の2種類に行きつくと思います。
反論やさらに分解が可能だという方は是非ご意見ください。
人間というか生物のあらゆる感情や行動は結局のところ「快」か「不快」の二進法に集約されます。
無数の快と不快が集まって様々な感情や思考、さらには宗教さえも生み出しているわけですね。
まるで「0」と「1」「オンかオフか」の二進法だけで無数のプログラムを実行するパソコンのようです。
「都合」「快と不快」なので時代や地域によって善悪や道徳の基準がバラバラなのも当然というわけですね。
ここまで突き詰めると大体のことは分かってきます。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか?」
という問いに対して
共同体にとって都合が悪いからと答えられます。
では「殺人」はどの社会においても「悪」である。
しかし、殺人鬼が子供を殺そうとしたところ、
殺人鬼を殺して子供を助けたならそれは英雄的行為であり善である。
紛れもなく「殺人」でありながら善なのである。
なぜ殺人鬼が子供を殺すのは悪なのにその殺人鬼を殺すのは善なのか?
という問いかけにも
善悪とは共同体にとっての都合である。
殺人鬼が子供を殺すのは「共同体にとって都合が悪いから」
殺人鬼を殺すのは「共同体にとって都合がいいから」。
なお都合とは「快か不快か」ということである。
と答えることができます。
「ハーバード~」に出てきた例題として
漂流する5人が一人を殺して食べ4人が生き残った。
殺して食べなければ全員が死んだかもしれない。
これは善か悪か。
という問いにも
共同体としてはより多くが生き残ったので4人の行為は善(共同体にとって都合がいい)である。
しかし自分のために同属を殺した4人の行為は悪(共同体にとって都合が悪い)である。
よって一概に善悪を断ずることはできない。
と善悪が混合するケースであることを理解し答えることができます。
漫画に出てきそうな
「愛する誰かのために世界を滅ぼそうとする人物」
「世界を救うために愛する誰かを平然と殺す人物」に対して
上記は完全に敵でありながら憎み切れない、
下記は完全に味方であり命の恩人でありながら好きになれない
といった感想を持つかと思いますが
これも共同体にとって悪である。しかしその性質は善である。
共同体にとって善である。しかし性質は悪である。という
両方を持ったケースです。
人間は生まれながらにして公平ではない。
生まれ持った才能や経済状況ゆえに差がつくことを許していいのか。
基本的教育や累進課税だけでは足りない。
人は平等であるべきである。という平等主義に対して
また、人は自由である。
彼が自らの努力で得たものを再配分することは泥棒と同義である。
そんなことを許していいのか。
政府は最低限の役目を果たす小さな政府であるべきである。
という自由主義に対して
どっちも良いも悪いもない。状況と都合は常に変わる。
善悪もそれに合わせて変わる。
にも拘らず「画一的な主義を持った」その一点においてどちらも間違っていると答えられます。
とまぁこういう前提があるので私は
政治哲学において功利主義だとか自由主義だとか共産主義だとかそんなものはどうでもよい。
国家の使命は国民の利益を最大化することである。
功利主義とは異なりこの利益とは金銭、財産だけではなく精神的な快不快をも内包する。
より多くが最大限「快」を示し、多数発生するであろう例外においては
より多くが「快」を示す例外を設ける。
すなわち人間が猿のころから自然に行ってきた基本的方針「うまい具合にする」ということである。
敢えて主義というなら「現実主義」。
「快不快」は時代や風習民族性、その時々の流行り廃りや状況においても異なる。
最善も状況が常に変わるため常に異なる。
画一的にこれが最善という指針は存在しえない。
ゆえに現実主義を根底におかず何らかの画一的指針(いかなる状況下でも小さな政府、いかなる状況下でも大きな政府など)を根底にすえてしまったあらゆる主義、宗教は間違いである。
どのような善性に基づいていようと必ず破綻し害悪をまき散らす「共同体にとって都合が悪いモノ」。
すなわち「悪」である。
と回答するわけですが。
カントへの一言
「宗教という人間社会から生まれたあぶくの上に建物をたてるとそうなる」
コメント
No title
No title
あ、その手がありましたか・・・・
今Wちゃんからエロいだけじゃなくストーリー的に面白いの描けって指示が出てて四苦八苦してるところでして・・・
まぁ長い目で見てやってください^^;
今Wちゃんからエロいだけじゃなくストーリー的に面白いの描けって指示が出てて四苦八苦してるところでして・・・
まぁ長い目で見てやってください^^;
No title
そもそも「善」「悪」という概念を論じる前に、ありとあらゆる生命が生きる目的を考えると、まんが「もやしもん」でも菌たちが語っているように、「他は滅ぼしてもいいから自分たちは栄えたいの」というのが、生命の究極の目的であると私は考えてます。
そして、この「自分たち」の定義こそが哲学なのではないかと私は考えてます。
「自分」「家(家族ないし一族)」「村ないし部族」「政党」「民族」「国」「宗教」「思想」「人種」「人類全体」「地球上生物全体」・・・。
「都合」なんて言葉よりも、突き詰めれば結局は、「その共同体が栄えるか滅びるか」ってことでしょう。
ここで、共同体ってのは、力が強いほど他勢力と争って滅びにくくなり、また圧倒的な差の場合、支配という名の下に自身配下に組み入れることが可能になる。力ってのは数に相関性はあれど、現代の人類では経済(カネ)の力がハバを聞かせるのは間違いないでしょう。
結局のところ、**主義ってのは、この共同体のサイズの取り方であり、そしてそれ自身がひとつの共同体呈してた主義と対立する。さらに、個人の利得に対して、最も都合の良いコミュニティに属し、その時々で都合の良い共同体のサイズのレンジでモノを見る。結局は、ただそれだけのことだ思うんです。
そして、この「自分たち」の定義こそが哲学なのではないかと私は考えてます。
「自分」「家(家族ないし一族)」「村ないし部族」「政党」「民族」「国」「宗教」「思想」「人種」「人類全体」「地球上生物全体」・・・。
「都合」なんて言葉よりも、突き詰めれば結局は、「その共同体が栄えるか滅びるか」ってことでしょう。
ここで、共同体ってのは、力が強いほど他勢力と争って滅びにくくなり、また圧倒的な差の場合、支配という名の下に自身配下に組み入れることが可能になる。力ってのは数に相関性はあれど、現代の人類では経済(カネ)の力がハバを聞かせるのは間違いないでしょう。
結局のところ、**主義ってのは、この共同体のサイズの取り方であり、そしてそれ自身がひとつの共同体呈してた主義と対立する。さらに、個人の利得に対して、最も都合の良いコミュニティに属し、その時々で都合の良い共同体のサイズのレンジでモノを見る。結局は、ただそれだけのことだ思うんです。
判断の基準を「共同体にとっての利害」でなく、「誰かが考えたストーリー」にしてるからおかしな事になるのね。
主義者たちには主義者の共同体があるってのはわかるが…「その前に」ってのを思い出してほしいな。
あー、それができないから宗教家なのか…
やっぱりもう別の生物なんじゃないかあいつら。
主義者たちには主義者の共同体があるってのはわかるが…「その前に」ってのを思い出してほしいな。
あー、それができないから宗教家なのか…
やっぱりもう別の生物なんじゃないかあいつら。
No title
「快」「不快」の対比は「有」「無」や「生」「死」のようにも感じますね~
ただ、個人的には「生」「無」なんじゃなかろうかと。
つまり、「生」は生きている者にとって当然だけれども「無」はそもそも存在しないのだから感じることもできない。
ゆえに「生」あるものの中で「無」と言う概念を創出しなければ知覚されない。
「無」に帰する行為を「悪」とすれば、「快」「不快」も包括されうるのではないかと・・・
昨日「LO」と「護身術2」買ってきました@@ノ
J種は無限増殖して異星人のおにゃのこと・・・とか思ったんだけどもw
ただ、個人的には「生」「無」なんじゃなかろうかと。
つまり、「生」は生きている者にとって当然だけれども「無」はそもそも存在しないのだから感じることもできない。
ゆえに「生」あるものの中で「無」と言う概念を創出しなければ知覚されない。
「無」に帰する行為を「悪」とすれば、「快」「不快」も包括されうるのではないかと・・・
昨日「LO」と「護身術2」買ってきました@@ノ
J種は無限増殖して異星人のおにゃのこと・・・とか思ったんだけどもw
No title
> 功利主義とは異なりこの利益とは金銭、財産だけではなく精神的な快不快をも内包する。
むしろ功利主義は精神的な快不快を主眼にした考え方で、
金銭を扱うのは快不快を数値化して比較するための
便宜的で分かりやすい尺度にすぎない、と理解しています。
ですので、この記事で書かれていることも一般的な功利主義と
さほど違いがあると思えないのですが、いかがでしょうか。
むしろ功利主義は精神的な快不快を主眼にした考え方で、
金銭を扱うのは快不快を数値化して比較するための
便宜的で分かりやすい尺度にすぎない、と理解しています。
ですので、この記事で書かれていることも一般的な功利主義と
さほど違いがあると思えないのですが、いかがでしょうか。
No title
>「いい」「悪い」「道徳」とはそもそもなんなのかを追及せずして論じても
「良い」「道徳」は聖書「悪い」は聖書以外って感じ?偏見入ってるけど
基礎情報が違うと齟齬がでるよなぁ
「良い」「道徳」は聖書「悪い」は聖書以外って感じ?偏見入ってるけど
基礎情報が違うと齟齬がでるよなぁ
No title
哲学は具体的な積み重ねをしないと屁理屈やカルトと変わらないと思っています。
だいたいナントカ思想家や主義者はヤバイ人と考えておいて間違いありません、自分は武道をかじっていましたがそういう人が来ると屁理屈ばかり言っていました、物理破壊のできる現実主義者に専門外の空想主義者が口出しするなと思いました。
いや…先輩や先生が遠慮のない現実主義者だったのです。
だいたいナントカ思想家や主義者はヤバイ人と考えておいて間違いありません、自分は武道をかじっていましたがそういう人が来ると屁理屈ばかり言っていました、物理破壊のできる現実主義者に専門外の空想主義者が口出しするなと思いました。
いや…先輩や先生が遠慮のない現実主義者だったのです。
人は基本的に損得勘定で動いてると思う
No title
もうちょっと理解が進んでから書き散らした方がよろしいかと。
未だ読み始めたばかりなんでしょ?
未だ読み始めたばかりなんでしょ?
No title
わくさん>
その共同体が栄えるか滅びるかを価値として判断するものは何か?
というとやはり快不快→都合に集約されると思うのですがいかがでしょう。
ただ細菌レベルまでさかのぼって考えてなかったので細菌にとって生きるとはどういうことなのかというのは面白いですね。
快不快以前にもう一つ生死に関する何かがあるかもしれません。ちょっと考えておきます。
アシさん>
「宗教の領域」に入った人間は別の生物ですね。
最初から誰もが持っている地に足着いた獣の倫理を失ってふわふわ浮いてしまっている。
Shige☆ さん>無に帰する行為は必ずしも悪ではないですよ。
人は死にますがそれは悪ではないように。
お買い上げあざーす。
undoさん>
ありゃま。功利主義を勘違いしてたかもしれませんね。
もし人がサル同然だったころから自然に行ってきた現実主義的判断が功利主義だというなら功利主義そのものですね。
弁護させてもらうと私の言う現実主義(厳密には主義とは呼べない)は既存の「画一的な指針を示す主義」というモノ自体を否定している点が違うでしょうか。ありのままをまず押さえろ的な。
おーくさん>
前提を間違えてたら絶対正しい結論には至らないですしね。
ただ今現在ほぼすべての人が無意識に「善悪」をなにか宙に浮いた絶対的なところにあるものと認識して使っているような気がします。
ナガツキ さん>
現実主義を失って地に足着かなくなると人間って途端におかしいこと言い出しますからねぇ・・・
いい先輩と先生っすねw
セバスさん>
その通りですね。
損得には金銭以外の愛情感情や美意識なども含まれますがそれらもまた突きつめれば損得勘定です。
>思わせぶりで要領を得ない提言ですね。
そういう思わせぶりなことを言う人間には2種類います。
本当に一歩先に進んでて上から相手を育て導こうとしてる人間と
そういう人間のふりをして上に立ったように見せかけるだけの中身のない張りぼてです。
その共同体が栄えるか滅びるかを価値として判断するものは何か?
というとやはり快不快→都合に集約されると思うのですがいかがでしょう。
ただ細菌レベルまでさかのぼって考えてなかったので細菌にとって生きるとはどういうことなのかというのは面白いですね。
快不快以前にもう一つ生死に関する何かがあるかもしれません。ちょっと考えておきます。
アシさん>
「宗教の領域」に入った人間は別の生物ですね。
最初から誰もが持っている地に足着いた獣の倫理を失ってふわふわ浮いてしまっている。
Shige☆ さん>無に帰する行為は必ずしも悪ではないですよ。
人は死にますがそれは悪ではないように。
お買い上げあざーす。
undoさん>
ありゃま。功利主義を勘違いしてたかもしれませんね。
もし人がサル同然だったころから自然に行ってきた現実主義的判断が功利主義だというなら功利主義そのものですね。
弁護させてもらうと私の言う現実主義(厳密には主義とは呼べない)は既存の「画一的な指針を示す主義」というモノ自体を否定している点が違うでしょうか。ありのままをまず押さえろ的な。
おーくさん>
前提を間違えてたら絶対正しい結論には至らないですしね。
ただ今現在ほぼすべての人が無意識に「善悪」をなにか宙に浮いた絶対的なところにあるものと認識して使っているような気がします。
ナガツキ さん>
現実主義を失って地に足着かなくなると人間って途端におかしいこと言い出しますからねぇ・・・
いい先輩と先生っすねw
セバスさん>
その通りですね。
損得には金銭以外の愛情感情や美意識なども含まれますがそれらもまた突きつめれば損得勘定です。
>思わせぶりで要領を得ない提言ですね。
そういう思わせぶりなことを言う人間には2種類います。
本当に一歩先に進んでて上から相手を育て導こうとしてる人間と
そういう人間のふりをして上に立ったように見せかけるだけの中身のない張りぼてです。
No title
ご返信ありがとうございます。
先生が「現実主義」と呼ぶ考え方は、
「プラグマティズム」と呼ばれるものに近いと思います。
それはともかく。
「国家の使命は国民の利益を最大化することである」
とは言っても、いったい誰が「利益」や「最大化」の判断をするのか、
という問題が解決されない限りはうまくいかないと思います。
今は国民自身が判断してるわけですが、
利益を最大化する「ように見える」ものを選ぶことしかできず、
結果として、選ばれる側も利益を最大化する「ように見える」ことを
重視するようになるでしょう。
今月のプリベルのような教育が施されればまだいいのでしょうが、
実際にはまずどのような教育が利益を最大化するのか、という話になって
堂々巡りです。
先生が「現実主義」と呼ぶ考え方は、
「プラグマティズム」と呼ばれるものに近いと思います。
それはともかく。
「国家の使命は国民の利益を最大化することである」
とは言っても、いったい誰が「利益」や「最大化」の判断をするのか、
という問題が解決されない限りはうまくいかないと思います。
今は国民自身が判断してるわけですが、
利益を最大化する「ように見える」ものを選ぶことしかできず、
結果として、選ばれる側も利益を最大化する「ように見える」ことを
重視するようになるでしょう。
今月のプリベルのような教育が施されればまだいいのでしょうが、
実際にはまずどのような教育が利益を最大化するのか、という話になって
堂々巡りです。
No title
プラグマティズムって言うんですか・・・・
しらんかったです。
その何が最大利益なのか堂々巡りに~というあたりは私の認識では問題ありません。
なぜなら現実には制限時間内に選ばないことも含め何かを選ばなければならないからです。
従来の哲学的には問題なのでしょうが
現実主義者としてはその点は問題にはなりませんね。
問題となるのはそれを最大限効率的に議論し判断し決を採れるシステムや教育となります。
よってプリベルで描いたようなことを一つの結論として示すわけです。
ところで哲学の定義って今はどのように定義されてますか?
私は人生などにおいて最善を求めるすべての思考、何らかの指針を求める行為と考えていますが
(ゆえに絶対真理はないという結論が出たならすでに哲学は死んでいると考える)
もしかして私は哲学の範疇からすでに外れてますでしょうか?
しらんかったです。
その何が最大利益なのか堂々巡りに~というあたりは私の認識では問題ありません。
なぜなら現実には制限時間内に選ばないことも含め何かを選ばなければならないからです。
従来の哲学的には問題なのでしょうが
現実主義者としてはその点は問題にはなりませんね。
問題となるのはそれを最大限効率的に議論し判断し決を採れるシステムや教育となります。
よってプリベルで描いたようなことを一つの結論として示すわけです。
ところで哲学の定義って今はどのように定義されてますか?
私は人生などにおいて最善を求めるすべての思考、何らかの指針を求める行為と考えていますが
(ゆえに絶対真理はないという結論が出たならすでに哲学は死んでいると考える)
もしかして私は哲学の範疇からすでに外れてますでしょうか?
No title
> なぜなら現実には制限時間内に選ばないことも含め何かを選ばなければならないからです。
それは私の考えの前提にもあるのですが、
なぜそれで問題ないことになるのかがよく分かりません。
制限時間があるということは、充分な議論が行えず、
結果として選ぶものが最大利益から遠ざかる可能性が高まる
ということを意味するのではないでしょうか。
システムや教育によってこのデメリットは軽減されますが、
制限時間がデメリットであること自体は変わらないと思います。
> ところで哲学の定義って今はどのように定義されてますか?
> 私は人生などにおいて最善を求めるすべての思考、何らかの指針を求める行為と考えていますが
それでだいたい合ってると思います。
ですが、「唯一の真理」が否定されたらそれで哲学は死ぬのか?と言われると
それもちょっと違うのではないかと思います。
たとえば、近代までの科学者も
「すべての自然法則を解明することで絶対の真理に辿り着きたい」
という目的を持っていました。
しかし不確定性原理の発見により、この目的は否定されることになります。
これにより「科学は死んでいる」と言えるでしょうか。
普通は言いませんよね。
なぜ言わないかというと、
「科学技術によって人間の生活をより豊かにしたい」
「真理はともかく目の前にある現象は解明したい」
なども科学者の目的だったからです。
というかむしろこっちがメインだと考える人の方が多いでしょう。
以上は科学の話ですが、哲学にもほぼ同じことが言えます。
哲学にとっても「真理の追求」は大きな目標ではありましたが、
それは哲学のひとつの側面にすぎず、
「良い政治とは何か」「良い教育とは何か」「良い経営とは何か」
ということを考えていた哲学者もたくさんいます。
また、もともとは「最善を求めるには唯一の真理が必要である」という主張から
真理の追求が始まっているので、
「唯一の真理」が否定されたことで本来の目的である「最善」に戻ってきたのが
現代の哲学(の一派)であると言えるかもしれません。
(もちろん真理の追求そのものを目的としていた哲学者もたくさんいますが)
プラグマティズム(実用主義)もこの流れから生まれました。
「ある人にとっての真理とは、その人にとって役に立つものである」
とする考え方です。
私見ですが、「現実主義」の主張のうち
「個人の快不快」についてはプラグマティズムに、
「共同体の都合」については功利主義で説明できるため、
「現実主義」も充分「哲学」の範疇であると考えます。
それは私の考えの前提にもあるのですが、
なぜそれで問題ないことになるのかがよく分かりません。
制限時間があるということは、充分な議論が行えず、
結果として選ぶものが最大利益から遠ざかる可能性が高まる
ということを意味するのではないでしょうか。
システムや教育によってこのデメリットは軽減されますが、
制限時間がデメリットであること自体は変わらないと思います。
> ところで哲学の定義って今はどのように定義されてますか?
> 私は人生などにおいて最善を求めるすべての思考、何らかの指針を求める行為と考えていますが
それでだいたい合ってると思います。
ですが、「唯一の真理」が否定されたらそれで哲学は死ぬのか?と言われると
それもちょっと違うのではないかと思います。
たとえば、近代までの科学者も
「すべての自然法則を解明することで絶対の真理に辿り着きたい」
という目的を持っていました。
しかし不確定性原理の発見により、この目的は否定されることになります。
これにより「科学は死んでいる」と言えるでしょうか。
普通は言いませんよね。
なぜ言わないかというと、
「科学技術によって人間の生活をより豊かにしたい」
「真理はともかく目の前にある現象は解明したい」
なども科学者の目的だったからです。
というかむしろこっちがメインだと考える人の方が多いでしょう。
以上は科学の話ですが、哲学にもほぼ同じことが言えます。
哲学にとっても「真理の追求」は大きな目標ではありましたが、
それは哲学のひとつの側面にすぎず、
「良い政治とは何か」「良い教育とは何か」「良い経営とは何か」
ということを考えていた哲学者もたくさんいます。
また、もともとは「最善を求めるには唯一の真理が必要である」という主張から
真理の追求が始まっているので、
「唯一の真理」が否定されたことで本来の目的である「最善」に戻ってきたのが
現代の哲学(の一派)であると言えるかもしれません。
(もちろん真理の追求そのものを目的としていた哲学者もたくさんいますが)
プラグマティズム(実用主義)もこの流れから生まれました。
「ある人にとっての真理とは、その人にとって役に立つものである」
とする考え方です。
私見ですが、「現実主義」の主張のうち
「個人の快不快」についてはプラグマティズムに、
「共同体の都合」については功利主義で説明できるため、
「現実主義」も充分「哲学」の範疇であると考えます。
No title
問題ではないというのは「議論が堂々巡りになること」ですね。
堂々巡りになることは問題として考えても仕方ない、ならば問題として考えるべきは哲学的最善の追求ではなく議論や結論を出すためのシステムとなります。
時間制限はデメリットであるというのはその通りです。
なるほど大体話は見えてきました。
哲学自体が死んだとするのは早計でしたね。
「科学が宗教的要素を消し去ってより確かなものとなったように
従来の宗教的要素を消し去った
新たな哲学を始めるべきだ」に訂正します。
こんな感じでいかがでしょう。
同意にいたれるでしょうか。
堂々巡りになることは問題として考えても仕方ない、ならば問題として考えるべきは哲学的最善の追求ではなく議論や結論を出すためのシステムとなります。
時間制限はデメリットであるというのはその通りです。
なるほど大体話は見えてきました。
哲学自体が死んだとするのは早計でしたね。
「科学が宗教的要素を消し去ってより確かなものとなったように
従来の宗教的要素を消し去った
新たな哲学を始めるべきだ」に訂正します。
こんな感じでいかがでしょう。
同意にいたれるでしょうか。
No title
確かに問題として考えても仕方ないですね。
おおむね同意にも至れたと思います。
おおむね同意にも至れたと思います。
「快と不快」の根源
私が大学で習った「発達心理学」によると、
人間が体験する「快」と「不快」の根底には、
「興奮」という、未分化の状態がある、
という解釈でした。
・脳神経の状態 → 「興奮」と「沈静」に分化する
・興奮 → 「快」と「不快」に分化する
・快 → 様々な「フェティシズム」に分化する
(先天的な「快」と、後天的に学習した「情報」との
間に、連結が生じる)
・「快」の定義:
→自己の維持(食)・複製(性)にとって、
都合のよい「刺激」を受容したときに起きる、
主観的・経験的な感覚。
こんな感じでしたが‥う~ん。
マゾヒズムな人の立場は、どうなんでしょうか?
人間が体験する「快」と「不快」の根底には、
「興奮」という、未分化の状態がある、
という解釈でした。
・脳神経の状態 → 「興奮」と「沈静」に分化する
・興奮 → 「快」と「不快」に分化する
・快 → 様々な「フェティシズム」に分化する
(先天的な「快」と、後天的に学習した「情報」との
間に、連結が生じる)
・「快」の定義:
→自己の維持(食)・複製(性)にとって、
都合のよい「刺激」を受容したときに起きる、
主観的・経験的な感覚。
こんな感じでしたが‥う~ん。
マゾヒズムな人の立場は、どうなんでしょうか?
No title
すみません、ちと訂正します。
>先天的な「快」と、後天的に学習した「情報」と
の 間に、連結が生じる
↓
先天的な「快」と、後天的に摂取した「情報」との
間に、学習による「条件づけ(連結)」が生じる
>先天的な「快」と、後天的に学習した「情報」と
の 間に、連結が生じる
↓
先天的な「快」と、後天的に摂取した「情報」との
間に、学習による「条件づけ(連結)」が生じる
No title
undoさん>
すみませんコメが流れてて気づきませんでした。
ウィリアムス魔球さん>
おおう・・・・なるほど興奮と鎮静にさらに分化できるわけですか。
勉強になりました。ありがとうございます。
すみませんコメが流れてて気づきませんでした。
ウィリアムス魔球さん>
おおう・・・・なるほど興奮と鎮静にさらに分化できるわけですか。
勉強になりました。ありがとうございます。
コメントの投稿
青年誌掲載モノはともかくとして
どういうジャンルをよりエロく感じるかってのは個人の趣味だから細かいことは言わないけど、
エロ漫画はエロくありさえすればOK
というかエロくある事がエロ漫画の存在理由
エロ漫画読んでるときはエロいことだけ考えていたい。
Jの娘達がJの息子達殺しちゃったら強い固体が増えねーじゃん
半殺しにして精子製造器として飼うか、逆にレイプしろよ。
なんてことを考えてしまうと萎えるのよ。
我慢するときには素数を数えるけど、いざ出そうってときに素数数える変り者はそうそういない。
まあ、私がレイプものいまいち好きじゃないってのもあるだろうけど・・・
でも巫女島シリーズは勃つんだよなー
理屈っぽいエンディングなのに。
なんでだろ?
「これでいいのだ」的な雰囲気だからかなー