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「否定した瞬間かわいそうな子決定な話」がなぜそうなのかというとだな
「かわいそうな子」が一匹湧いてきてたのでより詳細に説明しましょう。
こういうのは「結果」を想定して見ればわかります。
では前回の「否定した瞬間かわいそうな子決定」の要素が
事実ではない!!ということになった場合どのような結果になるか想定してみましょう。
【国家目的は「民の生存と発展」とは限らない】
全ての政策は対等になり
「正しい政策」も「間違った政策」も存在しなくなります。
なぜなら「目的」が不明瞭であり
民の生存と発展とは限らないのですから。
結果として国民がより多く死ぬ政策もより貧しくなる政策も
全く問題ではありませんし批判する根拠がありません。
例えば新自由主義者が国家目的は新自由主義の実現であり
民の生存と発展ではないといって今後
供給能力が限界まで削減されるまでデフレを続けようと
小さな政府をといって国土強靭化などを取消し
それで何十万人死のうともそれを非難する根拠はありません。
「国家目的に反する」と指摘できなくなります。
気に食わないからエロ漫画規制したいというものが
表現規制しますといっても
それで結果どうなろうと非難する社会的根拠がありません。
二次規制で現実の犯罪が増えようと文化が一つ潰れようと
多くの人が生活を奪われようと
それを非難する客観的根拠がありません。
どんなやってはいけない理由を並べようと
それが事実だろうと「だから何?私たちは規制したいんだ。
政治家への影響力と数の暴力で勝負をつけようか」で終わりです。
放火魔があなたの家に火をつけて
あなたの家族も家も焼かれたとしたら
あなたは激怒するでしょうが
それを社会的に非難する根拠はなく
警察が放火魔を逮捕する理由もありません。
そもそも警察や法律が存在する必要すら不明瞭です。
「あなたには都合悪かったね。でも社会からしたら
放火魔の放火が正しいとか間違ってるとか判断できないんだよ。
なぜなら社会の目的そのものが人それぞれだから」
ということになります。
「目的が定まっていない」ということは
「正しい」「間違い」の判断基準が存在せず
「どのようなものであろうと目的次第で認められ」
「全ての主張も批判もそいつがそう思ってるだけ」で
「それが通るかどうかは結果の正当性ではなく数の暴力や物理的暴力のみ」ということです。
いわゆる無法地帯ですね。
これはそもそも社会や国家と言えるでしょうか。
こんな社会はおかしいですか?
おかしいですね。
これを「おかしい」と判断するあなたの基準
世の中の人の基準は何か?
「何の目的に照らして」おかしいと判断しているのか?
言葉にすると「民の生存と発展」です。
社会契約論だとかどの国だからどうだとか
個々人の気分がどうだとか全く関係ない
「群れというシステム自体」の目的です。
ちなみに犬やサルの「群れ」でさえ
この目的はしっかり持って活動しています。
持っていないなら「群れそのもの」が成り立たないからです
つまりこれを否定したがる奴は
「群れを作る生き物として」歪んでる。
もしくは「その群れに対する敵対者」ということです。
【価値観の違いは対等であり尊重されなければならない】
これも上記と同じです。
価値観の違いとは「目的の違い」であるため
これを全て対等とすると
この社会において誰にも何事をも判断できなくなります。
あなたが殺されたとしても
あなたの命よりあなたの金を奪うことが大事だった殺人犯の価値観は
尊重されなければならないので逮捕もなにもできません。
またそれを止める社会的根拠がゼロです。
これもいわゆる「無法地帯」ですね。
これではいけない?
殺人犯の価値観は尊重しないのに「価値観の違いは対等であり尊重せよ」と言っているなら
それはつまり「私に都合の悪い価値観は尊重しなくていい。
社会的に否定されるはずのゆがんだ私の価値観は対等な価値観の違いなので尊重せよ」と
言っているだけの詐欺師です。
【目的は不明瞭でよく状況は把握せずともよく結果は想定せずともいい】
もう説明しなくてもいいよね。これ。
まぁ一言だけ言っておくと無法地帯以前のカオスになります。
目的と結果が一致しない意味不明な活動があふれかえるだけですね。
さて。
これらのことはいつの時代のどの国だろうと
人間以外の犬やサルの群れだろうと
「必然」として行われる要素です。
これが否定されたときは「群れそのもの」が崩壊します。
個人的主観も価値観も関係のない
「「群れ」「国家」「社会」が「そもそも成立するため」の要素」だからです。
この社会で議論される「あらゆることの大前提」であり
ここを否定したらもうこの社会そのものが成立しません。
またこの大前提を否定した者とは何の議論も成り立ちません。
「判断の根拠そのもの」を否定しているわけですから
なにも判断できずなにも考えることができない人間ということです。
さて、ここでこの
「判断基準の大前提が否定され不明瞭になった状態」
というのは「一体誰にとって都合がいいのか?」と考えてみましょう。
一般大多数の人にとっては大変不都合です。
上記のことはもちろん判断基準そのものが失われ
全ての判断が迷走することになります。
上記のような主張がまかり通った結果は
「誰にも何もわからない」ことになります。
この「誰にも何もわからない状態」が都合がいい人間。
それは誰でしょう。
「詐欺師」「嘘つき」です。
判断基準を明確にされると彼らの「詐欺」は
「目的と結果の想定とその検証」によってあっという間にばれてしまいます。
しかし「国家目的さえ不明瞭で誰にも何も分からない」
「主張が違っても価値観の違いとして尊重される」
「目的も状況も結果も考えない」社会であれば
詐欺師は大いにはびこることが可能です。
「目的が不明瞭で結局わからない状態」は「詐欺師が詐欺師ではないことになる状態」
「価値観の違いがなんであれ尊重される状態」は「社会的に排除されるべき詐欺師だけが尊重される状態」
「目的や結果を明確化しない状態」は「詐欺師が見抜かれない状態」
なわけですね。
さてこういう大前提となる判断基準そのものを否定する連中というのは
自ら「何もわからないことにしていながら」
「それにもかかわらず何事かを強く主張」しています。
つまり「詐欺師」です。
「歪んだ主張を通したい、認めさせたいから」
「誰にも何もわからないように判断基準そのものを否定し」
にもかかわらず「これが正しいと主張する」わけですね。
社会の論理の大前提を否定したがる者、
それを何度説明されても「わかりたくない者」とは
社会的に間違った主張と価値観をごまかして社会に受け入れてほしい「詐欺師」です。
「詐欺師」の自覚がなく
さらに「普段自分が当然としている判断の大前提」を説明されても「わかりたくない」のであれば
それは本当に低能でゆがんだ「無自覚な詐欺師の協力者」です。
どのくらい低能かというと
「判断基準そのものを否定し何もわからないと自ら主張して居ながら
これが正しいお前は間違ってると主張でき
お前の価値観は尊重しないから私の価値観を尊重せよと真顔で主張し
それをごまかすために本題と関係ない話と曲解と決めつけと誤魔化ししか出てこない上に
その状態を改善することが決して不可能」というちょっと会話不可能なレベルです。
こういうのは「結果」を想定して見ればわかります。
では前回の「否定した瞬間かわいそうな子決定」の要素が
事実ではない!!ということになった場合どのような結果になるか想定してみましょう。
【国家目的は「民の生存と発展」とは限らない】
全ての政策は対等になり
「正しい政策」も「間違った政策」も存在しなくなります。
なぜなら「目的」が不明瞭であり
民の生存と発展とは限らないのですから。
結果として国民がより多く死ぬ政策もより貧しくなる政策も
全く問題ではありませんし批判する根拠がありません。
例えば新自由主義者が国家目的は新自由主義の実現であり
民の生存と発展ではないといって今後
供給能力が限界まで削減されるまでデフレを続けようと
小さな政府をといって国土強靭化などを取消し
それで何十万人死のうともそれを非難する根拠はありません。
「国家目的に反する」と指摘できなくなります。
気に食わないからエロ漫画規制したいというものが
表現規制しますといっても
それで結果どうなろうと非難する社会的根拠がありません。
二次規制で現実の犯罪が増えようと文化が一つ潰れようと
多くの人が生活を奪われようと
それを非難する客観的根拠がありません。
どんなやってはいけない理由を並べようと
それが事実だろうと「だから何?私たちは規制したいんだ。
政治家への影響力と数の暴力で勝負をつけようか」で終わりです。
放火魔があなたの家に火をつけて
あなたの家族も家も焼かれたとしたら
あなたは激怒するでしょうが
それを社会的に非難する根拠はなく
警察が放火魔を逮捕する理由もありません。
そもそも警察や法律が存在する必要すら不明瞭です。
「あなたには都合悪かったね。でも社会からしたら
放火魔の放火が正しいとか間違ってるとか判断できないんだよ。
なぜなら社会の目的そのものが人それぞれだから」
ということになります。
「目的が定まっていない」ということは
「正しい」「間違い」の判断基準が存在せず
「どのようなものであろうと目的次第で認められ」
「全ての主張も批判もそいつがそう思ってるだけ」で
「それが通るかどうかは結果の正当性ではなく数の暴力や物理的暴力のみ」ということです。
いわゆる無法地帯ですね。
これはそもそも社会や国家と言えるでしょうか。
こんな社会はおかしいですか?
おかしいですね。
これを「おかしい」と判断するあなたの基準
世の中の人の基準は何か?
「何の目的に照らして」おかしいと判断しているのか?
言葉にすると「民の生存と発展」です。
社会契約論だとかどの国だからどうだとか
個々人の気分がどうだとか全く関係ない
「群れというシステム自体」の目的です。
ちなみに犬やサルの「群れ」でさえ
この目的はしっかり持って活動しています。
持っていないなら「群れそのもの」が成り立たないからです
つまりこれを否定したがる奴は
「群れを作る生き物として」歪んでる。
もしくは「その群れに対する敵対者」ということです。
【価値観の違いは対等であり尊重されなければならない】
これも上記と同じです。
価値観の違いとは「目的の違い」であるため
これを全て対等とすると
この社会において誰にも何事をも判断できなくなります。
あなたが殺されたとしても
あなたの命よりあなたの金を奪うことが大事だった殺人犯の価値観は
尊重されなければならないので逮捕もなにもできません。
またそれを止める社会的根拠がゼロです。
これもいわゆる「無法地帯」ですね。
これではいけない?
殺人犯の価値観は尊重しないのに「価値観の違いは対等であり尊重せよ」と言っているなら
それはつまり「私に都合の悪い価値観は尊重しなくていい。
社会的に否定されるはずのゆがんだ私の価値観は対等な価値観の違いなので尊重せよ」と
言っているだけの詐欺師です。
【目的は不明瞭でよく状況は把握せずともよく結果は想定せずともいい】
もう説明しなくてもいいよね。これ。
まぁ一言だけ言っておくと無法地帯以前のカオスになります。
目的と結果が一致しない意味不明な活動があふれかえるだけですね。
さて。
これらのことはいつの時代のどの国だろうと
人間以外の犬やサルの群れだろうと
「必然」として行われる要素です。
これが否定されたときは「群れそのもの」が崩壊します。
個人的主観も価値観も関係のない
「「群れ」「国家」「社会」が「そもそも成立するため」の要素」だからです。
この社会で議論される「あらゆることの大前提」であり
ここを否定したらもうこの社会そのものが成立しません。
またこの大前提を否定した者とは何の議論も成り立ちません。
「判断の根拠そのもの」を否定しているわけですから
なにも判断できずなにも考えることができない人間ということです。
さて、ここでこの
「判断基準の大前提が否定され不明瞭になった状態」
というのは「一体誰にとって都合がいいのか?」と考えてみましょう。
一般大多数の人にとっては大変不都合です。
上記のことはもちろん判断基準そのものが失われ
全ての判断が迷走することになります。
上記のような主張がまかり通った結果は
「誰にも何もわからない」ことになります。
この「誰にも何もわからない状態」が都合がいい人間。
それは誰でしょう。
「詐欺師」「嘘つき」です。
判断基準を明確にされると彼らの「詐欺」は
「目的と結果の想定とその検証」によってあっという間にばれてしまいます。
しかし「国家目的さえ不明瞭で誰にも何も分からない」
「主張が違っても価値観の違いとして尊重される」
「目的も状況も結果も考えない」社会であれば
詐欺師は大いにはびこることが可能です。
「目的が不明瞭で結局わからない状態」は「詐欺師が詐欺師ではないことになる状態」
「価値観の違いがなんであれ尊重される状態」は「社会的に排除されるべき詐欺師だけが尊重される状態」
「目的や結果を明確化しない状態」は「詐欺師が見抜かれない状態」
なわけですね。
さてこういう大前提となる判断基準そのものを否定する連中というのは
自ら「何もわからないことにしていながら」
「それにもかかわらず何事かを強く主張」しています。
つまり「詐欺師」です。
「歪んだ主張を通したい、認めさせたいから」
「誰にも何もわからないように判断基準そのものを否定し」
にもかかわらず「これが正しいと主張する」わけですね。
社会の論理の大前提を否定したがる者、
それを何度説明されても「わかりたくない者」とは
社会的に間違った主張と価値観をごまかして社会に受け入れてほしい「詐欺師」です。
「詐欺師」の自覚がなく
さらに「普段自分が当然としている判断の大前提」を説明されても「わかりたくない」のであれば
それは本当に低能でゆがんだ「無自覚な詐欺師の協力者」です。
どのくらい低能かというと
「判断基準そのものを否定し何もわからないと自ら主張して居ながら
これが正しいお前は間違ってると主張でき
お前の価値観は尊重しないから私の価値観を尊重せよと真顔で主張し
それをごまかすために本題と関係ない話と曲解と決めつけと誤魔化ししか出てこない上に
その状態を改善することが決して不可能」というちょっと会話不可能なレベルです。
否定によって否定が無価値になる事柄ってのがあんのよ
「我思うゆえに我あり」という有名な言葉がありますが
これは
「この世の疑いうるものすべてを疑いつくしたとしても
「自分」が存在するのか?という疑いだけは
疑うことによって疑っている自分の存在が証明されてしまうため
疑問の余地がない。だからこれを哲学上疑問の余地のない真理として定める」という哲学上の話です。
こういう「疑うことによって逆に証明される」ような
「否定することによって否定が意味をなさなくなる」
事柄というのがこの世にはあります。
例えば国家目的「民の生存と発展」。
これを否定するということは
「別の目的を持っていてそのためならその国の民が生存せずとも発展せずともよい」ということであり
そういう目的を持ちながら国政にかかわろうとする存在を「その国の敵」と言います。
そして「敵」にはその国の政治に参加する資格自体がありません。
つまり国家目的「民の生存と発展」を否定した瞬間
その人物はその国の敵でありその国の政治について語る資格自体を失います。
具体的には
「いや日本の国家目的は世界平和である!!民の生存と発展では無い!!」
という人物がいたならそいつは世界平和を実現するためなら
日本国民がどれだけ死のうと不幸になろうとかまわない人物ということであり
まさしく日本国民の「敵」というわけですね。
なお「日本の国家目的は民の生存と発展である!!そのための「手段」として世界平和の実現を目指す!!」
なら構いません。
そしてこの場合「手段」なので
世界平和を目指すのが日本国民の不利益になるようなら
世界平和を目指すという「手段」を撤回する必要があります。
もし不利益になっても撤回しないのであれば
それは「日本の国家目的は世界平和である!!民の生存と発展ではない!!」
と本当は思ってる詐欺師だということです。
次に「「価値観の違いは対等であり尊重するべき」というのは嘘。
事実、強盗も放火魔も人がより多く死ぬ政策も人がより多く救われる政策も
対等として尊重されはしないし対等として尊重されれば社会が崩壊する。
民の生存と発展という社会の目的に添う価値観は社会的に正しい価値観であり
それに反する価値観は社会的に間違った価値観である。
対等に尊重していいのは社会に重大な結果をもたらさない個人的レベルの価値観のみである」。
さてこれに反論するとどうなるかというと
「社会に害をなす価値観を
対等ではなく尊重しないという
お前の価値観は対等ではないし尊重しない。
価値観の違いは対等であり尊重するべき」
というとても愉快なことになります。
これ実は平等主義や寛容主義の根源的矛盾で
「価値観の違いを認め合うべき」と主張した瞬間
「価値観の違いを認めないという価値観」を認めなければならなくなるんですね。
つまり
「お前の価値観の違いを認めない!価値観の違いを認めろ!!」というかわいそうな子になるか
「価値観の違いを認めないという価値観を認めるので何も言えないしできない」かどっちかです。
そして「何かをするときは目的に対し前提を把握し目的の結果をもたらす手段を考案すべき」「目的に対しその結果をもたらす手段を「正しい」といいその結果をもたらさない物を「間違っている」という」
コイツを否定すると
特に政治など重大な事柄において否定するとその人は
「国家目的も不明瞭で前提もわからないままに結果も考えず手段を行ってよい。
正しいも間違っているも存在しないかその時の気分で適当に定めてよい」と主張することになります。
どこか一部の否定でも同じことです。
「目的は不明瞭でよい」「状況も把握しなくてよい」「結果は考えなくてよい」
「正しい」は存在しない「間違っている」も存在しないあるいは「その人が信じたものが正しい間違いの定義である」
否定した瞬間頭がかわいそうな子決定です。
なんせ自分が日常的に普段やっていて
自分個人のレベルでさえこれに外れたことはしないというのに
より重大な国政の面では否定して見せてるわけですから。
その人が普段
なぜそうするのかもわからないままに排泄するために台所の流し台に座り
料理をするためにトイレに入り買い物に行くために家の中をぐるぐる徘徊して
台所の異臭に苦しめられ不潔な食事を食い食材を買えずに飢え
しかし「いや価値観の違いだからこれも正しいんだ」と主張して居ようと構いませんが(関わりたくはありませんが)
皆の生活や命がかかってる国政の場においてそういう真似を正しいと主張すると
みんなが迷惑するのでダメです。
これは
「この世の疑いうるものすべてを疑いつくしたとしても
「自分」が存在するのか?という疑いだけは
疑うことによって疑っている自分の存在が証明されてしまうため
疑問の余地がない。だからこれを哲学上疑問の余地のない真理として定める」という哲学上の話です。
こういう「疑うことによって逆に証明される」ような
「否定することによって否定が意味をなさなくなる」
事柄というのがこの世にはあります。
例えば国家目的「民の生存と発展」。
これを否定するということは
「別の目的を持っていてそのためならその国の民が生存せずとも発展せずともよい」ということであり
そういう目的を持ちながら国政にかかわろうとする存在を「その国の敵」と言います。
そして「敵」にはその国の政治に参加する資格自体がありません。
つまり国家目的「民の生存と発展」を否定した瞬間
その人物はその国の敵でありその国の政治について語る資格自体を失います。
具体的には
「いや日本の国家目的は世界平和である!!民の生存と発展では無い!!」
という人物がいたならそいつは世界平和を実現するためなら
日本国民がどれだけ死のうと不幸になろうとかまわない人物ということであり
まさしく日本国民の「敵」というわけですね。
なお「日本の国家目的は民の生存と発展である!!そのための「手段」として世界平和の実現を目指す!!」
なら構いません。
そしてこの場合「手段」なので
世界平和を目指すのが日本国民の不利益になるようなら
世界平和を目指すという「手段」を撤回する必要があります。
もし不利益になっても撤回しないのであれば
それは「日本の国家目的は世界平和である!!民の生存と発展ではない!!」
と本当は思ってる詐欺師だということです。
次に「「価値観の違いは対等であり尊重するべき」というのは嘘。
事実、強盗も放火魔も人がより多く死ぬ政策も人がより多く救われる政策も
対等として尊重されはしないし対等として尊重されれば社会が崩壊する。
民の生存と発展という社会の目的に添う価値観は社会的に正しい価値観であり
それに反する価値観は社会的に間違った価値観である。
対等に尊重していいのは社会に重大な結果をもたらさない個人的レベルの価値観のみである」。
さてこれに反論するとどうなるかというと
「社会に害をなす価値観を
対等ではなく尊重しないという
お前の価値観は対等ではないし尊重しない。
価値観の違いは対等であり尊重するべき」
というとても愉快なことになります。
これ実は平等主義や寛容主義の根源的矛盾で
「価値観の違いを認め合うべき」と主張した瞬間
「価値観の違いを認めないという価値観」を認めなければならなくなるんですね。
つまり
「お前の価値観の違いを認めない!価値観の違いを認めろ!!」というかわいそうな子になるか
「価値観の違いを認めないという価値観を認めるので何も言えないしできない」かどっちかです。
そして「何かをするときは目的に対し前提を把握し目的の結果をもたらす手段を考案すべき」「目的に対しその結果をもたらす手段を「正しい」といいその結果をもたらさない物を「間違っている」という」
コイツを否定すると
特に政治など重大な事柄において否定するとその人は
「国家目的も不明瞭で前提もわからないままに結果も考えず手段を行ってよい。
正しいも間違っているも存在しないかその時の気分で適当に定めてよい」と主張することになります。
どこか一部の否定でも同じことです。
「目的は不明瞭でよい」「状況も把握しなくてよい」「結果は考えなくてよい」
「正しい」は存在しない「間違っている」も存在しないあるいは「その人が信じたものが正しい間違いの定義である」
否定した瞬間頭がかわいそうな子決定です。
なんせ自分が日常的に普段やっていて
自分個人のレベルでさえこれに外れたことはしないというのに
より重大な国政の面では否定して見せてるわけですから。
その人が普段
なぜそうするのかもわからないままに排泄するために台所の流し台に座り
料理をするためにトイレに入り買い物に行くために家の中をぐるぐる徘徊して
台所の異臭に苦しめられ不潔な食事を食い食材を買えずに飢え
しかし「いや価値観の違いだからこれも正しいんだ」と主張して居ようと構いませんが(関わりたくはありませんが)
皆の生活や命がかかってる国政の場においてそういう真似を正しいと主張すると
みんなが迷惑するのでダメです。
俺の「漫画家ごはん」が一つの完成を見た・・・!!
フルーツグラノーラに最近はまってるんです。
日持ちするし牛乳賭けるだけですぐ食べられるし
栄養豊富だし。
後大豆のグラノーラと
野菜のグラノーラ。
忙しいからって食べないよりずっといい。
そして昨日ふと思いついて
放置気味だったバナナ風味プロテインをかけて食ってみたんですよ。
うめぇ。
そしてタンパク質が大幅増量。
グラノーラの各種ビタミンや大量の食物繊維。
牛乳のカロリーと各種栄養素。
そしてプロテインのたんぱく質。
軽食として最強じゃねこれ。
忙しい時の食事として最強じゃねこれ。
グラノーラに足りない栄養素を加えて食す!!
ティンと来た。ティンと来たぜ。
小麦ブランとか各種シリアル系食品をいろいろ追加しつつ混ぜて食えば
完全食の完成じゃね。
まぁこればっかだと病気になりそうな気がするんで
まともな食事もしますけど。
忙しい時はこれ最強だろ。
誰か栄養とか詳しい人足りない栄養素とか教えてくださいw
追記
グラノーラ無くなってたので
買うついでに薬局で聞いてきた。
青魚のDHA(だっけ?)とかそういうの以外はすでに
カルビーフルグラで全部入ってるらしい。
つまり「食べる小魚」やサバの缶詰とフルグラだけで
基本的な栄養素はばっちり。
まぁそれだけだと精神衛生上よくないので
普通の食事もしなければいけないが
忙しい時の食事としてはやはりベストと思われます。
いまのところ食事のメインと化しつつあるのが
「スーパーで売ってる野菜炒めセット」「豚ロース薄切り」による「入れて煮るだけ水炊き」
「冷凍しといたごはん」と「サンマやサバの缶詰」「納豆」などによる「ごはん食」
そして「グラノーラ」
後パスタもあるんだけど最近食ってない。
消費しないとな。
さて仕事スッペ。
追記
そうそう大事なこと忘れてた。
前回、前々回と全然前回の記事は「思想の歪みチェッカー」だって言ったけど
これ相当数の人が反論したくなったんじゃないかと思います。
なんでかっつーとね。
「普通に生きてたら普通ではいられないから」です。
いつの時代のどこの国であろうと
その時の社会の気分や空気によって「思想」や「主義」が蔓延しています。
それに無自覚に当然のように触れていながら「普通」で居続けるってのはだいぶ困難です。
例えば「価値観の違いは対等であり双方尊重しなければならない」とか。
これ一見正しいようで多くの人がこれにのっとっていると思われる発言をしていますが
実はとんでもない暴論です。
なんせ「人の命より目先の金が大事な強盗」も
「人の家が燃えるのを見るためなら人が焼け出されても構わない放火魔」も
立派な「価値観の違い」なのに「それを価値観の違いだから尊重せよ」と言っているんですから。
しかし実際にはこういう連中は「逮捕されるべきただのクズ」として扱いますよね。
「価値観の違いだから尊重せよ」とは言いません。
というか尊重したら逮捕できません。
つまり「価値観の違いは対等であり双方尊重しなければならない」は
「嘘」であり現実には対応していない「歪んだ思想」です。
「対等に尊重」していいのは「犬好きか猫好きか」のような
どっちだろうと社会に重大な結果をもたらさない「影響が個人レベルで収まる価値観」に限ります。
特に政治のような人の命がかかったものにおいては
価値観の違いはそのまま「どちらかが群れに対する敵対者である」ことを意味します。
そういうものを「尊重」するってことは
群れに対し害をなす詐欺師に都合のいい社会を作り
詐欺師を尊重しそして群れにとって必要な正解を
述べているものを埋もれさせるということです。
こういう「思想」に気付かないうちに染まってる状態は普通でも中道でもありません。
こういった「思想」をきっちり排除して
はじめて本当の意味で「普通」「中道」になります。
そして本当の意味で「普通」「中道」とは
「いつの時代のどの国の誰であろうと
日常的に当たり前に行う行為と判断」が当たり前にでき
「それができなくなってしまう歪みを持たない」状態。
つまり「目的に対し状況を把握し手段を考案し結果を想定する」
という「本当の当り前が当たり前としてできる状態」です。
日持ちするし牛乳賭けるだけですぐ食べられるし
栄養豊富だし。
後大豆のグラノーラと
野菜のグラノーラ。
忙しいからって食べないよりずっといい。
そして昨日ふと思いついて
放置気味だったバナナ風味プロテインをかけて食ってみたんですよ。
うめぇ。
そしてタンパク質が大幅増量。
グラノーラの各種ビタミンや大量の食物繊維。
牛乳のカロリーと各種栄養素。
そしてプロテインのたんぱく質。
軽食として最強じゃねこれ。
忙しい時の食事として最強じゃねこれ。
グラノーラに足りない栄養素を加えて食す!!
ティンと来た。ティンと来たぜ。
小麦ブランとか各種シリアル系食品をいろいろ追加しつつ混ぜて食えば
完全食の完成じゃね。
まぁこればっかだと病気になりそうな気がするんで
まともな食事もしますけど。
忙しい時はこれ最強だろ。
誰か栄養とか詳しい人足りない栄養素とか教えてくださいw
追記
グラノーラ無くなってたので
買うついでに薬局で聞いてきた。
青魚のDHA(だっけ?)とかそういうの以外はすでに
カルビーフルグラで全部入ってるらしい。
つまり「食べる小魚」やサバの缶詰とフルグラだけで
基本的な栄養素はばっちり。
まぁそれだけだと精神衛生上よくないので
普通の食事もしなければいけないが
忙しい時の食事としてはやはりベストと思われます。
いまのところ食事のメインと化しつつあるのが
「スーパーで売ってる野菜炒めセット」「豚ロース薄切り」による「入れて煮るだけ水炊き」
「冷凍しといたごはん」と「サンマやサバの缶詰」「納豆」などによる「ごはん食」
そして「グラノーラ」
後パスタもあるんだけど最近食ってない。
消費しないとな。
さて仕事スッペ。
追記
そうそう大事なこと忘れてた。
前回、前々回と全然前回の記事は「思想の歪みチェッカー」だって言ったけど
これ相当数の人が反論したくなったんじゃないかと思います。
なんでかっつーとね。
「普通に生きてたら普通ではいられないから」です。
いつの時代のどこの国であろうと
その時の社会の気分や空気によって「思想」や「主義」が蔓延しています。
それに無自覚に当然のように触れていながら「普通」で居続けるってのはだいぶ困難です。
例えば「価値観の違いは対等であり双方尊重しなければならない」とか。
これ一見正しいようで多くの人がこれにのっとっていると思われる発言をしていますが
実はとんでもない暴論です。
なんせ「人の命より目先の金が大事な強盗」も
「人の家が燃えるのを見るためなら人が焼け出されても構わない放火魔」も
立派な「価値観の違い」なのに「それを価値観の違いだから尊重せよ」と言っているんですから。
しかし実際にはこういう連中は「逮捕されるべきただのクズ」として扱いますよね。
「価値観の違いだから尊重せよ」とは言いません。
というか尊重したら逮捕できません。
つまり「価値観の違いは対等であり双方尊重しなければならない」は
「嘘」であり現実には対応していない「歪んだ思想」です。
「対等に尊重」していいのは「犬好きか猫好きか」のような
どっちだろうと社会に重大な結果をもたらさない「影響が個人レベルで収まる価値観」に限ります。
特に政治のような人の命がかかったものにおいては
価値観の違いはそのまま「どちらかが群れに対する敵対者である」ことを意味します。
そういうものを「尊重」するってことは
群れに対し害をなす詐欺師に都合のいい社会を作り
詐欺師を尊重しそして群れにとって必要な正解を
述べているものを埋もれさせるということです。
こういう「思想」に気付かないうちに染まってる状態は普通でも中道でもありません。
こういった「思想」をきっちり排除して
はじめて本当の意味で「普通」「中道」になります。
そして本当の意味で「普通」「中道」とは
「いつの時代のどの国の誰であろうと
日常的に当たり前に行う行為と判断」が当たり前にでき
「それができなくなってしまう歪みを持たない」状態。
つまり「目的に対し状況を把握し手段を考案し結果を想定する」
という「本当の当り前が当たり前としてできる状態」です。
ようやくひとくぎり
ちょっと今月オナホ会社さんのエロ漫画10P+ダークドリーム2話分で52P
+天空の扉5管の販促からー4P+プリベルで
100Pオーバーな感じなんで
更新無理ぽ。
コメ返信ちょっときついんで勘弁してやってください。
というわけでかるーくネタばらし。
前回前々回の記事って
反論してる人含め
「国も時代も問わず
だれでも日常的に普通にやってる
「判断そのもの」」
を言葉にして説明しただけのものです。
例えばトイレに行こうとして
寝ぼけて台所に入ってしまったら
それは「間違えた」と判断し排泄という目的を達成できる場所
「トイレ」という「正しい場所」に移動します。
天下国家であろうと
「みんなが不幸になって国民がどんどん不当に死んでいく政策」と
「皆が幸せになって不当に死ぬ国民が減る政策」
日本国としてどちらが正しいか
と問われた時あなたが答えるその「判断基準」は何か?
上の問いに対し「判断ができる」ということは
あなたは「国家という組織の目的を理解している」ということです。
その目的を言葉にすると「民の生存と発展」です。
消防署という組織に「防災、防火、鎮火」といった目的があるように
国家という組織にも「組織としての目的」があります。
「消防署の目的は人それぞれじゃないし人それぞれじゃ困る」ように
「国家の目的」も人それぞれではありません。
人それぞれなのは「その人の個人的目的」であって「国家という組織の目的」ではありません。
そんな「自分が普段使ってる当然の判断基準を言葉にされて反論したくなった」
ということは「自分が普段使ってる当然の判断基準から外れた思想」を固持している。
「本当の意味で当たり前」を「適用されたくない部分がある」。
それはつまりどこかに「個人的主観に基づく思想的歪み」があるということです。
つまり思想の歪みチェッカーなんですね。
あなたが反論したくなった「そこ」があなたの「歪み」ですので
一日も早く修復しましょう。
+天空の扉5管の販促からー4P+プリベルで
100Pオーバーな感じなんで
更新無理ぽ。
コメ返信ちょっときついんで勘弁してやってください。
というわけでかるーくネタばらし。
前回前々回の記事って
反論してる人含め
「国も時代も問わず
だれでも日常的に普通にやってる
「判断そのもの」」
を言葉にして説明しただけのものです。
例えばトイレに行こうとして
寝ぼけて台所に入ってしまったら
それは「間違えた」と判断し排泄という目的を達成できる場所
「トイレ」という「正しい場所」に移動します。
天下国家であろうと
「みんなが不幸になって国民がどんどん不当に死んでいく政策」と
「皆が幸せになって不当に死ぬ国民が減る政策」
日本国としてどちらが正しいか
と問われた時あなたが答えるその「判断基準」は何か?
上の問いに対し「判断ができる」ということは
あなたは「国家という組織の目的を理解している」ということです。
その目的を言葉にすると「民の生存と発展」です。
消防署という組織に「防災、防火、鎮火」といった目的があるように
国家という組織にも「組織としての目的」があります。
「消防署の目的は人それぞれじゃないし人それぞれじゃ困る」ように
「国家の目的」も人それぞれではありません。
人それぞれなのは「その人の個人的目的」であって「国家という組織の目的」ではありません。
そんな「自分が普段使ってる当然の判断基準を言葉にされて反論したくなった」
ということは「自分が普段使ってる当然の判断基準から外れた思想」を固持している。
「本当の意味で当たり前」を「適用されたくない部分がある」。
それはつまりどこかに「個人的主観に基づく思想的歪み」があるということです。
つまり思想の歪みチェッカーなんですね。
あなたが反論したくなった「そこ」があなたの「歪み」ですので
一日も早く修復しましょう。
「考え方は人それぞれ」って簡単に使っていい言葉じゃないです。
前回の追記として補足をしましょう。
前回
「何が正しいか判断する」ためには
「目的」「状況」「手段」「結果」の4つが必要だと書きました。
どれが欠けてもわかりませんし
逆にかけているものを把握すれば「分かり」ます。
さて、しかしこの世の中結果が想定できることばかりではありません。
本当にいくら情報を集めても結果を想定しようのない事態、
本当に情報を得られない事態もたくさん存在します。
(・・・念のため言っとくけど「だから情報収集してもしなくても一緒」って話じゃないからね。
情報収集で分かる分は全部分かった「その上で」「どうしても本当に分かりえない部分」の話だからね。)
例えば戦争で
「敵の兵力は調べた限りではこうだった
しかし状況が詳細な偵察を許さず
未知の敵兵力が存在するかもしれない。
しかし今から詳細に偵察しようとしたら機を逃す
さてどうするか?」
これは「状況」が正確には分かっていません。
なので「これが正解」というものを断定できません。
もしかしたら偵察で得た情報が敵のすべてかもしれませんし
偵察から漏れた圧倒的兵力が隠れてるかも知れません。
偵察で得た情報が敵のすべてなら予定どおり攻撃しなければせっかくの機を逃がしてしまいます。
かといって調べから漏れた敵の兵力が圧倒的だったら全滅させられるかもしれません。
ではここから先は「正解」がないので
何も判断しないのか?
あるいは人それぞれだと言って
バラバラに行動すべきなのか?
違います。
ここから先は「確率」「ギャンブル」の話になるだけです。
「目的」に対しその「結果」を出せる確率が最も高い方法が「次善解」となります。
「偵察の結果全ては把握できなかった。
しかしここは敵にとってさほど重要な拠点ではない。
圧倒的兵力が存在している可能性はゼロではないが
限りなく低い。」
となれば
「予定通り攻撃を行う。
ただし偵察が完璧ではないので
その点を考慮し未知の兵力にも
対応できるよう作戦を変更する。」
が「次善解」となります。
「敵がいっぱいいる可能性が
ゼロではないから見逃して逃げる」
は「悪手」です。
なぜか?
もしこれですべての予想を裏切って
たまたま敵の主力部隊でも居た日にゃあ
「次善解」では全滅しかねません。
「悪手」で生き残ることになるでしょう。
それは「分かりえない」のに
何故「未知の兵力に備えて攻撃」が次善解で
「可能性がゼロではないから逃げる」のは悪手なのか?
それは「目的」に対し「その結果を出せる可能性が著しく低くなる」からです。
この例の場合軍隊の目的は勝利なのに
可能性がゼロではないからという理由で毎回逃げ出していては
軍の目的を達成できる可能性が著しく低くなります。
それではたとえ今回たまたま逃げ出すのが正解であったとしても
全体で見て負けてしまう可能性が極めて高くなります。
それでは本末転倒。
「その手段」では「目的を達成できる可能性が極めて低い」
だから「目的を達成できる可能性の高い」
「その上で悪い結果も想定しそれにも対処する」
「上記の判断が次善解」となるわけですね。
もっと分かりやすく身近な例で行くと
「火事で3階にあなたが取り残されている。
消防隊員が水をかけながらはしご車で救助するのと
ガソリンを大量に投入してその爆風で
飛び降りる度胸のないあなたをいい感じに浮き上がらせ
たまたま植え込みに落とすことで無傷で助けるのとどちらを選択すべきか?」
消防隊員がはしご車で登っていく間に
ガス爆発が発生しあなたが吹き飛んでしまう可能性はゼロではありません。
水に反応する危険な薬物が隣の部屋にたまたま存在している可能性もゼロではありません。
ガソリン大量投入によって爆発を発生させ
その燃焼ガスがあなたをたまたまいい感じに浮き上がらせ
たまたま茂みに落ち無傷で救出、その直後に部屋で大爆発、
消防隊員がはしご車で救助してたら間に合わなかった!!
ガソリンをぶち込んだ人ありがとう!!となる可能性もゼロではありません。
神ならざる身にどちらが「正解」なのかは分かりません。
で、どちらをえらびますか?
もちろん消防隊員に助けてほしいですね。
なぜなら「その方が助かる可能性が高いから」
「助かる」という「目的」に対し「その結果をもたらす可能性が高い」「次善解だから」です。
ガソリンぶち込もうとするやつなんか
とりあえず警察にお縄になっとけって感じです。
纏めると
「正解」を判断するのに必要なのは
「目的」「状況」「手段」「結果」
分からない場合にはその4つを最大限把握。
「目的」を明確にし情報収集して「状況」を把握し
「手段」を考え「結果」を想定
その上でなお「分かりえない場合」には
「より目的の結果をもたらす可能性が高い方」を選択し
その上で可能な限り別の可能性にも備える。
ここまでは「目的に対する必然」です。
本当に「考え方は人それぞれ」になってくるのは
「この先のレベル」です。
「知りうる情報を調べつくしたうえでなお分かりえない事態」において
「確率が高いものをすべて選択し」
「想定できる結果を網羅し可能な限り対処し」
その上でもなお「本当にわからない物に対してどう対応するか。」
ここまで突き詰めてはじめて「考え方は人それぞれ」という言葉が正当になります。
本当に確率や傾向すら分かりえないものは
もう人知の及ばない純然たるギャンブルだからです。
目的を明確化し状況全体を把握すべく努め
把握したうえで手段と結果を想定し
その上でわからない物にも複数の結果を想定して
可能な限り備え対処し
それでも本当に分からない物に対してのみ「考え方は人それぞれ」という言葉が使えます。
状況も調べず結果も想定せず
目的すらも不明瞭な状態で
自分の気分に説明をつけただけの「答え」と
目的に対し状況を把握し結果を想定して出てきた「答え」を
「考え方は人それぞれ」なんて言葉で対等にするのは
非常に危険な行為ですのでやめましょう。
なぜならそれがまかり通った結果は
「本当に誰にも何もわからなくなるから」です。
具体的には今現在みたいに。
「数千年前の為政者たちでさえできていた
生活の延長に過ぎない政経軍事」が
今やまるで「神学論争扱い」です。
そして誰にも何もわからなくなって
「誰を信じる」だの「そんな気がする」だの
その場の気分とノリで票を動かした結果は前の民主党の大勝の様な政治の迷走と
国民への被害という形で我々自身に帰ってきます。
さらにこの「考え方は人それぞれ~」「一つの考え方として~」系の悪いところは
「非常に感染力が強い」ということです。
真面目に政経軍事考えようと思ったら
それこそ年単位であちこち情報収集して状況把握に努め
結果を想定しその上で判断しなければなりません。
前回「2年ロムれ」といいましたが
討論ばっかあちこち2年ロムるのってなんだかんだ言って大分労力や気力がかかります。
(だから気軽に気楽に楽しんでやるのが大事なんですけど。)
その点「考え方は人それぞれ~」はそんな労力とは無縁です。
「考え方は人それぞれなのです
答えを出す必要さえありません。
なぜなら答えは「人それぞれ」でむしろ
「答え」を主張するのは傲慢、思い上がり。
答えを出さないあなたは冷静で謙虚で
慎重で公正に見ている人なのです。
「考え方は人それぞれ」
「一つの考え方として尊重する」
「君の思想は分かった」etcetc・・・
こんな幼稚園児でも述べられる文字列を
並べるだけであなたも今すぐ
「何もわからない人」から
「高みから公正に見ている立派な人」に
なれちゃうんですよー。」
という麻薬みたいな思想です。
しかしその「怠惰」と「ちょっとしたかっこつけ」の対価は恐ろしく高くつきます。
正解も間違いも対等にして正解を埋もれさせ
「誰にも何もわからないようにすることで公正さを気取っている」わけですから。
「国家そのものの迷走とそれによる害」という形で対価を支払うことになるわけですね。
そもそも「考え方の違い」とは具体的に何でなぜ発生したのか。
上記のとおり「考え方の違い」は「分からない物に対して発生する」ものです。
「自宅が火事だ。どうすればいい?」のように
目的も状況も手段も結果も分かってる物に対して「考え方の違い」は発生しません。
そろって消防車を呼ぶだの水をかけるだの
「目的と状況と結果が一致した答え」だけが返ってきます。
状況が分からない、結果が想定できない、
だから主観や経験則くらいしか判断材料がない。
だから「考え方の違い」で「バラバラな答え」が出てくるのです。
日本国民が一有権者としてやるべきことは
公正な人を気取る詐欺ではありません。
情報を収集し状況を把握し結果を想定する
という「正当な努力」です。
おまけ
なお、この「考え方の違い」を
「目的」の部分に持ってくる人がいます。
「いや!!日本国の国家目的は○○だ!!
ここに考えかたの違いがあるのだ!!」ってかんじで。
目的自体が違うのは「考え方の違い」じゃなく「価値観の違い」です。
そして国家目的「国民の生存と発展」に異を唱えるものとは
その国の「敵」です。
中立でも無関係でもありません。
なんせ「○○国民が生存しなくても発展しなくてもいい。
俺には他の目的がありそれを実現するために俺は○○国の政治に関わり
その目的に異を唱える。」わけですから。
そういう存在を「敵」といいます。
(ちなみに本当に無関係や中立な人は「○○国民が生存しなくても発展しなくてもいい」けど
それと同時に○○国の政治に口出しませんしその目的に異も唱えません。
○○国民と呼べるのは「○○国の自分たちが生存し発展することに同意できる者」だけです。)
「国家目的=民の生存と発展」とは
「俺はそんな目的を持っていない」と否定した瞬間
「そいつがそこの国民ではない」ことになってしまう
否定によって証明されちゃう系の目的なんですねー。
前回
「何が正しいか判断する」ためには
「目的」「状況」「手段」「結果」の4つが必要だと書きました。
どれが欠けてもわかりませんし
逆にかけているものを把握すれば「分かり」ます。
さて、しかしこの世の中結果が想定できることばかりではありません。
本当にいくら情報を集めても結果を想定しようのない事態、
本当に情報を得られない事態もたくさん存在します。
(・・・念のため言っとくけど「だから情報収集してもしなくても一緒」って話じゃないからね。
情報収集で分かる分は全部分かった「その上で」「どうしても本当に分かりえない部分」の話だからね。)
例えば戦争で
「敵の兵力は調べた限りではこうだった
しかし状況が詳細な偵察を許さず
未知の敵兵力が存在するかもしれない。
しかし今から詳細に偵察しようとしたら機を逃す
さてどうするか?」
これは「状況」が正確には分かっていません。
なので「これが正解」というものを断定できません。
もしかしたら偵察で得た情報が敵のすべてかもしれませんし
偵察から漏れた圧倒的兵力が隠れてるかも知れません。
偵察で得た情報が敵のすべてなら予定どおり攻撃しなければせっかくの機を逃がしてしまいます。
かといって調べから漏れた敵の兵力が圧倒的だったら全滅させられるかもしれません。
ではここから先は「正解」がないので
何も判断しないのか?
あるいは人それぞれだと言って
バラバラに行動すべきなのか?
違います。
ここから先は「確率」「ギャンブル」の話になるだけです。
「目的」に対しその「結果」を出せる確率が最も高い方法が「次善解」となります。
「偵察の結果全ては把握できなかった。
しかしここは敵にとってさほど重要な拠点ではない。
圧倒的兵力が存在している可能性はゼロではないが
限りなく低い。」
となれば
「予定通り攻撃を行う。
ただし偵察が完璧ではないので
その点を考慮し未知の兵力にも
対応できるよう作戦を変更する。」
が「次善解」となります。
「敵がいっぱいいる可能性が
ゼロではないから見逃して逃げる」
は「悪手」です。
なぜか?
もしこれですべての予想を裏切って
たまたま敵の主力部隊でも居た日にゃあ
「次善解」では全滅しかねません。
「悪手」で生き残ることになるでしょう。
それは「分かりえない」のに
何故「未知の兵力に備えて攻撃」が次善解で
「可能性がゼロではないから逃げる」のは悪手なのか?
それは「目的」に対し「その結果を出せる可能性が著しく低くなる」からです。
この例の場合軍隊の目的は勝利なのに
可能性がゼロではないからという理由で毎回逃げ出していては
軍の目的を達成できる可能性が著しく低くなります。
それではたとえ今回たまたま逃げ出すのが正解であったとしても
全体で見て負けてしまう可能性が極めて高くなります。
それでは本末転倒。
「その手段」では「目的を達成できる可能性が極めて低い」
だから「目的を達成できる可能性の高い」
「その上で悪い結果も想定しそれにも対処する」
「上記の判断が次善解」となるわけですね。
もっと分かりやすく身近な例で行くと
「火事で3階にあなたが取り残されている。
消防隊員が水をかけながらはしご車で救助するのと
ガソリンを大量に投入してその爆風で
飛び降りる度胸のないあなたをいい感じに浮き上がらせ
たまたま植え込みに落とすことで無傷で助けるのとどちらを選択すべきか?」
消防隊員がはしご車で登っていく間に
ガス爆発が発生しあなたが吹き飛んでしまう可能性はゼロではありません。
水に反応する危険な薬物が隣の部屋にたまたま存在している可能性もゼロではありません。
ガソリン大量投入によって爆発を発生させ
その燃焼ガスがあなたをたまたまいい感じに浮き上がらせ
たまたま茂みに落ち無傷で救出、その直後に部屋で大爆発、
消防隊員がはしご車で救助してたら間に合わなかった!!
ガソリンをぶち込んだ人ありがとう!!となる可能性もゼロではありません。
神ならざる身にどちらが「正解」なのかは分かりません。
で、どちらをえらびますか?
もちろん消防隊員に助けてほしいですね。
なぜなら「その方が助かる可能性が高いから」
「助かる」という「目的」に対し「その結果をもたらす可能性が高い」「次善解だから」です。
ガソリンぶち込もうとするやつなんか
とりあえず警察にお縄になっとけって感じです。
纏めると
「正解」を判断するのに必要なのは
「目的」「状況」「手段」「結果」
分からない場合にはその4つを最大限把握。
「目的」を明確にし情報収集して「状況」を把握し
「手段」を考え「結果」を想定
その上でなお「分かりえない場合」には
「より目的の結果をもたらす可能性が高い方」を選択し
その上で可能な限り別の可能性にも備える。
ここまでは「目的に対する必然」です。
本当に「考え方は人それぞれ」になってくるのは
「この先のレベル」です。
「知りうる情報を調べつくしたうえでなお分かりえない事態」において
「確率が高いものをすべて選択し」
「想定できる結果を網羅し可能な限り対処し」
その上でもなお「本当にわからない物に対してどう対応するか。」
ここまで突き詰めてはじめて「考え方は人それぞれ」という言葉が正当になります。
本当に確率や傾向すら分かりえないものは
もう人知の及ばない純然たるギャンブルだからです。
目的を明確化し状況全体を把握すべく努め
把握したうえで手段と結果を想定し
その上でわからない物にも複数の結果を想定して
可能な限り備え対処し
それでも本当に分からない物に対してのみ「考え方は人それぞれ」という言葉が使えます。
状況も調べず結果も想定せず
目的すらも不明瞭な状態で
自分の気分に説明をつけただけの「答え」と
目的に対し状況を把握し結果を想定して出てきた「答え」を
「考え方は人それぞれ」なんて言葉で対等にするのは
非常に危険な行為ですのでやめましょう。
なぜならそれがまかり通った結果は
「本当に誰にも何もわからなくなるから」です。
具体的には今現在みたいに。
「数千年前の為政者たちでさえできていた
生活の延長に過ぎない政経軍事」が
今やまるで「神学論争扱い」です。
そして誰にも何もわからなくなって
「誰を信じる」だの「そんな気がする」だの
その場の気分とノリで票を動かした結果は前の民主党の大勝の様な政治の迷走と
国民への被害という形で我々自身に帰ってきます。
さらにこの「考え方は人それぞれ~」「一つの考え方として~」系の悪いところは
「非常に感染力が強い」ということです。
真面目に政経軍事考えようと思ったら
それこそ年単位であちこち情報収集して状況把握に努め
結果を想定しその上で判断しなければなりません。
前回「2年ロムれ」といいましたが
討論ばっかあちこち2年ロムるのってなんだかんだ言って大分労力や気力がかかります。
(だから気軽に気楽に楽しんでやるのが大事なんですけど。)
その点「考え方は人それぞれ~」はそんな労力とは無縁です。
「考え方は人それぞれなのです
答えを出す必要さえありません。
なぜなら答えは「人それぞれ」でむしろ
「答え」を主張するのは傲慢、思い上がり。
答えを出さないあなたは冷静で謙虚で
慎重で公正に見ている人なのです。
「考え方は人それぞれ」
「一つの考え方として尊重する」
「君の思想は分かった」etcetc・・・
こんな幼稚園児でも述べられる文字列を
並べるだけであなたも今すぐ
「何もわからない人」から
「高みから公正に見ている立派な人」に
なれちゃうんですよー。」
という麻薬みたいな思想です。
しかしその「怠惰」と「ちょっとしたかっこつけ」の対価は恐ろしく高くつきます。
正解も間違いも対等にして正解を埋もれさせ
「誰にも何もわからないようにすることで公正さを気取っている」わけですから。
「国家そのものの迷走とそれによる害」という形で対価を支払うことになるわけですね。
そもそも「考え方の違い」とは具体的に何でなぜ発生したのか。
上記のとおり「考え方の違い」は「分からない物に対して発生する」ものです。
「自宅が火事だ。どうすればいい?」のように
目的も状況も手段も結果も分かってる物に対して「考え方の違い」は発生しません。
そろって消防車を呼ぶだの水をかけるだの
「目的と状況と結果が一致した答え」だけが返ってきます。
状況が分からない、結果が想定できない、
だから主観や経験則くらいしか判断材料がない。
だから「考え方の違い」で「バラバラな答え」が出てくるのです。
日本国民が一有権者としてやるべきことは
公正な人を気取る詐欺ではありません。
情報を収集し状況を把握し結果を想定する
という「正当な努力」です。
おまけ
なお、この「考え方の違い」を
「目的」の部分に持ってくる人がいます。
「いや!!日本国の国家目的は○○だ!!
ここに考えかたの違いがあるのだ!!」ってかんじで。
目的自体が違うのは「考え方の違い」じゃなく「価値観の違い」です。
そして国家目的「国民の生存と発展」に異を唱えるものとは
その国の「敵」です。
中立でも無関係でもありません。
なんせ「○○国民が生存しなくても発展しなくてもいい。
俺には他の目的がありそれを実現するために俺は○○国の政治に関わり
その目的に異を唱える。」わけですから。
そういう存在を「敵」といいます。
(ちなみに本当に無関係や中立な人は「○○国民が生存しなくても発展しなくてもいい」けど
それと同時に○○国の政治に口出しませんしその目的に異も唱えません。
○○国民と呼べるのは「○○国の自分たちが生存し発展することに同意できる者」だけです。)
「国家目的=民の生存と発展」とは
「俺はそんな目的を持っていない」と否定した瞬間
「そいつがそこの国民ではない」ことになってしまう
否定によって証明されちゃう系の目的なんですねー。
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