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根っこを正さなきゃならんと思うんです2
民主主義の本質は議論では無いというご意見をいただいた
(いただいただけでまだ意見は変わっていませんがちょっと再検討します。)ので
ちょっとそこは保留しています。
私の中で民主主義の基本は議論では無い可能性が出てきましたので
「政治形態、主義主張問わず人が正しい答え、正しい結果を見出すために必要なものは議論である」
という方向で話を続けます。
正しい答えを得るには議論が必要なわけですが
大概の人間は「正意」(略語 より正しい答え、より良い結果を求める意思)に軸を置くと同時に
その「正意」から導き出されたなんらかの答えにまた別の軸を刺しています。
そして軸のいずれか、あるいは全てに自身の思考や誇り、自信など人格的本質をおいています。
見出した「答え」に本質を置いた人。
それが「意見が絶対変わらない人」です。
宗教家や政治思想の持ち主、感情的な人間に数多く居ます。
宗教家なんかモロです。
神とその教義は正しいという答えに本質を置いているのでその軸は絶対動きません。
「正意」の軸は本質がおかれない仮のものとなり、
時として「正意」の軸がすっぽ抜け現実に危害を加えるような判断を下します。
何らかの答えを見つけてそれが正しいと思い込むことは人間なら誰でもあります。
しかし、「正意」にしっかり軸を据えている人間はその答えが間違ったとき即座に、
あるいは時間をかけてでも必ずその間違った軸を抜いて「正意」に則り
正しいほうに修正をする、「答えを変える」ことが出来ます。
「答えを変える」「意見を変える」のは実に理想的でいいことなのです。
「君子豹変す」(賢いものは豹柄のようにすぐに意見を正す。)です。
「正意」にしっかり軸を据えている人間は反対意見や反論や批判を好みます。
別の視点や発想をくれたり論の欠点や過ちを指摘しより良くしてくださると
いうのですからそりゃもう大歓迎です。
自分が出した答えがどれほど明確にコテンパンに論破されたとしても
答えは所詮仮であって自分の本質をおいているのは「正意」の軸なので痛くも痒くもない。
論破されるのは喜ばしいことなんです。
感謝して答えをより正しく変えるだけです。
しかし、この「正意」から軸がぶれ、「{答え}に本質をおいた」、
すなわち「本質が正しい所に無い」人間は
反対意見や反論批判を親の仇のように憎みます。
なぜならそれらは全て自分の本質を脅かすものだからです。
出した「答え」(十中八九間違っているであろう答え)に本質をおいているから
反対意見の持ち主や反論してきた相手が「敵」になってしまい
論破されることは本質を脅かされることでありなんとしてでも答えを変えるわけに行かなくなります。
そして保身に走り論理破綻したり主張はあるくせに理想的な議論はおろか
レッテルを貼るだけで論を戦わせすらしないわけの分からん人間になってしまいます。
こういう人は軸がぶれていないようでいて根本的な部分で軸がぶれています。
何らかの「答え」に刺した軸が本質になった時点で
一番動かしてはならない軸である「正意」の軸が仮になってしまいぶれてしまっています。
たとえ現在持っている「答え」が現状正しく
そこに本質を置いても揺らぐことが無いとしても
「正意」は仮になってしまっています。
例え答えが正しくても本質は間違っていて覆されそうになれば
いつでも「正意」が放り出されてしまう危険な状態です。
この本質がぶれた人間が多いため議論=ケンカのような状態となり議論が忌避される。
議論をしなければ正しい答えは見つからないのに。
特に政治関係の人間にそういう本質の置き場所がブレた人間が多いため
「政治の話題は争いを呼ぶ」と政治の話題自体がタブー化してしまった。
致命傷です。
いい年したオトナが政治に興味ないとかそんな台詞を平気で吐ける社会になってしまった。
結果どうなるかというと
例えばマスコミに煽られるだけでごっそり票を動かして国の進行方向をむやみに乱したり
訳も分からずなんとなくで票を投じ駄目な人間を当選させたり。
これじゃ世の中良くなるわけ無いよね。
自民の誰かが勉強しないやつは投票しないで欲しい的な主旨のことを言って叩かれてましたが
それは全く正論です。
分からないなら票を入れてはいけません。
投票率が低いのは問題ですがそれは政治に関心の無い率が高いのが問題なのであって
投票率だけ上がったって無意味どころか有害です。
分からないなら棄権すべきです。
自分なりに考え抜いた末一票を投じた人の一票を霞めさせてはいけません。
「答え」に本質を置いては居ませんか?
論破されることを恐れては居ませんか?
議論は戦うものでは無く協力作業です。
きちんと「議論」が出来てますか?
一人一人が「正意」に本質を置き自分で考え議論する。
でなければいくら政治を改革しようったって無駄です。
我々国民自身がまず変わらなければ。
日本は民主主義国家なんですから。
という内容の政治漫画描こうかとか考えたんだけど。
どうだろう。
ここまで似合わない理想論ずらずら書きましたが
まーねー。理想は大事だし最大限そうあるよう努力すべきなんだけど
人間立場も利害もあるからなかなかそうは行かないんですよね。
というわけで日本で議論と言えばテレビなんかでも「討論」が目立つんですが
「討論」の仕組みと見方を少々参考までに。
討論は論客と審判で成り立ちます。
論客は互いに自分の主張を徹底的に押し通し相手の論をこき下ろし否定します。
審判はそれを見て二つの、あるいはそれ以上の主張のうちどれが正しいか判断します。
討論番組の審判は視聴者。
ネットならウォッチャーでしょうか。
討論のいいところはただのケンカ同然の罵り合いにすら建設的な価値を生み出す点です。
ののしりあう様を見ている傍観者が漁夫の利を得られるといってもいい。
ただ見る際に注意すべき点は
1、論客の数は関係ない。
論客の数が1000対1であっても論の正しさには何の関係もありません。
ひたすら中身なしにレッテルを張り、
数とレッテルだけで論敵をつぶそうとする連中もいるので気をつけなければいけません。
2、言い回しも感情も関係ない。
重要なのは内容が正しいか否かであって言い方がどうとかこっちは可哀想だからどうこうとか
そういうことは一切判断に加えてはいけません。
好き嫌い可哀想などの感情論が多く含まれ、同情を誘うような発言者には気をつけましょう。
中身が無い場合が多いです。
3誰が言っているかも関係ない
全ての議論では基本中の基本なんですが
その発言を誰が言ったかは全く関係がないので判断に加えてはいけません。
聖人君子だろうと極悪非道の下種だろうと
発言者のことが好きだろうと嫌いだろうと
議論の場では全く関係ないので判断に加えてはいけません。
(ちなみに議論の場で論をほっぽりだして人格批判を始めたらもう敗北宣言です。)
これらをわずかでも判断に加えてしまうと
致命的に道を誤ることにつながります。
なお、ネットなどの場合こういった敗北宣言もあります。
・相手の論に反対は表明するのだが内容を一切無視、あるいは揚げ足を取り
からかう、おちょくるレッテルを貼るなど真正面から論破しようとしない。
こういった行為は敗北宣言です。
相手の主張を打ち負かしたいなら真正面から論破するのが
一番いいにもかかわらずそれをしないで逃げ回りリングの外から空き缶を投げつける。
これは
「反対したいけれど私は間違っているので正しいあなたを論破できません。」
と行動で示していることに他なりません。
見かけたら一言言ってあげるととても親切だと思います。
完全に「正意」ではなく「答え」に軸を置いてる人間なので言っても聞かないとは思いますが。
(いただいただけでまだ意見は変わっていませんがちょっと再検討します。)ので
ちょっとそこは保留しています。
私の中で民主主義の基本は議論では無い可能性が出てきましたので
「政治形態、主義主張問わず人が正しい答え、正しい結果を見出すために必要なものは議論である」
という方向で話を続けます。
正しい答えを得るには議論が必要なわけですが
大概の人間は「正意」(略語 より正しい答え、より良い結果を求める意思)に軸を置くと同時に
その「正意」から導き出されたなんらかの答えにまた別の軸を刺しています。
そして軸のいずれか、あるいは全てに自身の思考や誇り、自信など人格的本質をおいています。
見出した「答え」に本質を置いた人。
それが「意見が絶対変わらない人」です。
宗教家や政治思想の持ち主、感情的な人間に数多く居ます。
宗教家なんかモロです。
神とその教義は正しいという答えに本質を置いているのでその軸は絶対動きません。
「正意」の軸は本質がおかれない仮のものとなり、
時として「正意」の軸がすっぽ抜け現実に危害を加えるような判断を下します。
何らかの答えを見つけてそれが正しいと思い込むことは人間なら誰でもあります。
しかし、「正意」にしっかり軸を据えている人間はその答えが間違ったとき即座に、
あるいは時間をかけてでも必ずその間違った軸を抜いて「正意」に則り
正しいほうに修正をする、「答えを変える」ことが出来ます。
「答えを変える」「意見を変える」のは実に理想的でいいことなのです。
「君子豹変す」(賢いものは豹柄のようにすぐに意見を正す。)です。
「正意」にしっかり軸を据えている人間は反対意見や反論や批判を好みます。
別の視点や発想をくれたり論の欠点や過ちを指摘しより良くしてくださると
いうのですからそりゃもう大歓迎です。
自分が出した答えがどれほど明確にコテンパンに論破されたとしても
答えは所詮仮であって自分の本質をおいているのは「正意」の軸なので痛くも痒くもない。
論破されるのは喜ばしいことなんです。
感謝して答えをより正しく変えるだけです。
しかし、この「正意」から軸がぶれ、「{答え}に本質をおいた」、
すなわち「本質が正しい所に無い」人間は
反対意見や反論批判を親の仇のように憎みます。
なぜならそれらは全て自分の本質を脅かすものだからです。
出した「答え」(十中八九間違っているであろう答え)に本質をおいているから
反対意見の持ち主や反論してきた相手が「敵」になってしまい
論破されることは本質を脅かされることでありなんとしてでも答えを変えるわけに行かなくなります。
そして保身に走り論理破綻したり主張はあるくせに理想的な議論はおろか
レッテルを貼るだけで論を戦わせすらしないわけの分からん人間になってしまいます。
こういう人は軸がぶれていないようでいて根本的な部分で軸がぶれています。
何らかの「答え」に刺した軸が本質になった時点で
一番動かしてはならない軸である「正意」の軸が仮になってしまいぶれてしまっています。
たとえ現在持っている「答え」が現状正しく
そこに本質を置いても揺らぐことが無いとしても
「正意」は仮になってしまっています。
例え答えが正しくても本質は間違っていて覆されそうになれば
いつでも「正意」が放り出されてしまう危険な状態です。
この本質がぶれた人間が多いため議論=ケンカのような状態となり議論が忌避される。
議論をしなければ正しい答えは見つからないのに。
特に政治関係の人間にそういう本質の置き場所がブレた人間が多いため
「政治の話題は争いを呼ぶ」と政治の話題自体がタブー化してしまった。
致命傷です。
いい年したオトナが政治に興味ないとかそんな台詞を平気で吐ける社会になってしまった。
結果どうなるかというと
例えばマスコミに煽られるだけでごっそり票を動かして国の進行方向をむやみに乱したり
訳も分からずなんとなくで票を投じ駄目な人間を当選させたり。
これじゃ世の中良くなるわけ無いよね。
自民の誰かが勉強しないやつは投票しないで欲しい的な主旨のことを言って叩かれてましたが
それは全く正論です。
分からないなら票を入れてはいけません。
投票率が低いのは問題ですがそれは政治に関心の無い率が高いのが問題なのであって
投票率だけ上がったって無意味どころか有害です。
分からないなら棄権すべきです。
自分なりに考え抜いた末一票を投じた人の一票を霞めさせてはいけません。
「答え」に本質を置いては居ませんか?
論破されることを恐れては居ませんか?
議論は戦うものでは無く協力作業です。
きちんと「議論」が出来てますか?
一人一人が「正意」に本質を置き自分で考え議論する。
でなければいくら政治を改革しようったって無駄です。
我々国民自身がまず変わらなければ。
日本は民主主義国家なんですから。
という内容の政治漫画描こうかとか考えたんだけど。
どうだろう。
ここまで似合わない理想論ずらずら書きましたが
まーねー。理想は大事だし最大限そうあるよう努力すべきなんだけど
人間立場も利害もあるからなかなかそうは行かないんですよね。
というわけで日本で議論と言えばテレビなんかでも「討論」が目立つんですが
「討論」の仕組みと見方を少々参考までに。
討論は論客と審判で成り立ちます。
論客は互いに自分の主張を徹底的に押し通し相手の論をこき下ろし否定します。
審判はそれを見て二つの、あるいはそれ以上の主張のうちどれが正しいか判断します。
討論番組の審判は視聴者。
ネットならウォッチャーでしょうか。
討論のいいところはただのケンカ同然の罵り合いにすら建設的な価値を生み出す点です。
ののしりあう様を見ている傍観者が漁夫の利を得られるといってもいい。
ただ見る際に注意すべき点は
1、論客の数は関係ない。
論客の数が1000対1であっても論の正しさには何の関係もありません。
ひたすら中身なしにレッテルを張り、
数とレッテルだけで論敵をつぶそうとする連中もいるので気をつけなければいけません。
2、言い回しも感情も関係ない。
重要なのは内容が正しいか否かであって言い方がどうとかこっちは可哀想だからどうこうとか
そういうことは一切判断に加えてはいけません。
好き嫌い可哀想などの感情論が多く含まれ、同情を誘うような発言者には気をつけましょう。
中身が無い場合が多いです。
3誰が言っているかも関係ない
全ての議論では基本中の基本なんですが
その発言を誰が言ったかは全く関係がないので判断に加えてはいけません。
聖人君子だろうと極悪非道の下種だろうと
発言者のことが好きだろうと嫌いだろうと
議論の場では全く関係ないので判断に加えてはいけません。
(ちなみに議論の場で論をほっぽりだして人格批判を始めたらもう敗北宣言です。)
これらをわずかでも判断に加えてしまうと
致命的に道を誤ることにつながります。
なお、ネットなどの場合こういった敗北宣言もあります。
・相手の論に反対は表明するのだが内容を一切無視、あるいは揚げ足を取り
からかう、おちょくるレッテルを貼るなど真正面から論破しようとしない。
こういった行為は敗北宣言です。
相手の主張を打ち負かしたいなら真正面から論破するのが
一番いいにもかかわらずそれをしないで逃げ回りリングの外から空き缶を投げつける。
これは
「反対したいけれど私は間違っているので正しいあなたを論破できません。」
と行動で示していることに他なりません。
見かけたら一言言ってあげるととても親切だと思います。
完全に「正意」ではなく「答え」に軸を置いてる人間なので言っても聞かないとは思いますが。
コメント
どうやら
どっちが正しいかじゃなく自分の主張がもしや間違ってるかもとか、そーいう姿勢の方が大事だというのに。
もしそう思ってても、くだらんプライドを捨てる勇気もないから自己批判できない。
そんなやつが政治家になったり政治家を選んだりするからおかしなことになる…
もしそう思ってても、くだらんプライドを捨てる勇気もないから自己批判できない。
そんなやつが政治家になったり政治家を選んだりするからおかしなことになる…
しまった
一文字ぬけた
すのかな…×
するのかな…〇
すのかな…×
するのかな…〇
No title
野田聖子さんはよく地元の声が届くとして地元からの評価は高いそうです。
私の感情論で言えば蒟蒻ゼリー事件のイメージ悪すぎて
いつかシバクと思ってしまったりしますが。
私の感情論で、ですよ?
私の感情論で言えば蒟蒻ゼリー事件のイメージ悪すぎて
いつかシバクと思ってしまったりしますが。
私の感情論で、ですよ?
No title
>あーアレですか・・・
あれはもう駄目ですね。
あの年でそんなレベルじゃもう修正不可能でしょう。
規制派は原因を求めるくせに物事の本質を追及するという肝心な作業を行っていないのが問題です。
古代の人間が問題が起こるたび原因を追究しようとせず生贄を選んで捧げてた時代から何も進歩していません。
>ええ、そういうのもありますね。
ただそれ以前に議論とは何か自体をわかっていない人間が多すぎるのが最大の問題です。
それが分かれば最早意地を張る必要すらなく
しっかりと議論が出来る土壌が出来ると思うんですが・・・
議論をケンカと混同してるなんてザラですからね・・・
>あー・・・感情だけで動く人間たちの姿が目に浮かぶ・・・・
評価高いってことは地元民の言うことはうまく反映させてるんですね。
やはりあのばあさんは異常者というよりかなり狡猾で黒い人間なんでしょう。
小沢と鳩の中間のような匂いを感じます。
あれはもう駄目ですね。
あの年でそんなレベルじゃもう修正不可能でしょう。
規制派は原因を求めるくせに物事の本質を追及するという肝心な作業を行っていないのが問題です。
古代の人間が問題が起こるたび原因を追究しようとせず生贄を選んで捧げてた時代から何も進歩していません。
>ええ、そういうのもありますね。
ただそれ以前に議論とは何か自体をわかっていない人間が多すぎるのが最大の問題です。
それが分かれば最早意地を張る必要すらなく
しっかりと議論が出来る土壌が出来ると思うんですが・・・
議論をケンカと混同してるなんてザラですからね・・・
>あー・・・感情だけで動く人間たちの姿が目に浮かぶ・・・・
評価高いってことは地元民の言うことはうまく反映させてるんですね。
やはりあのばあさんは異常者というよりかなり狡猾で黒い人間なんでしょう。
小沢と鳩の中間のような匂いを感じます。
No title
民主主義の基本についての私なりの見解なんですけどね。
民主主義が難しい、と言ったのはあらゆる事に対して民主主義が根付くからなんです。
そしてその全てが民主主義の根幹とはなり得ないんですよね。
経済の世界で言わせるなら民主主義の根幹は税金に尽きるそうです。
では法学の世界では?と言うと、まあ税金ではないですよね。
明治憲法時代の民主主義は非常に制限されていた。と言う言葉にもあるように
部分的な民主主義っていうのが簡単にできてしまう。
全てを総合的に絡めて民主主義といえるのか、はたまた一部だけを取り出して民主主義といえるのか、
この線引きは非常に曖昧なんですよ。
議論の論点や個人の主観、あらゆる状況に応じて民主主義の定義範囲が変わるから。
私が民主主義の本質は議論ではない、と言った理由の一つはそう言う理由なんです。
そしてもう一つ理由、の話ですがこれは逆説の日本史に書いてある通り。
例えばの話ですが
「ドイツ(死刑廃止の国)で連続通り魔事件が起こった。幸いにして犯人は捕まったが国民は全員が死刑にすべきと叫んでいる。
裁判所でも犯人の死刑が議論され、やがて全会一致で死刑が議決された。」
これは民主主義なんでしょうか?と言うと、やっぱり違うんですよね。
確かに議論の末の結果なんですけど、だからと言って事後法が許されるわけがない。
こんな事認めてしまっては思想としてすごく危険なんですよね。「何を以って死刑になるかの線引きが不明瞭」なんですから。
でも実際こういう考えを持つ人がすごく多いんですよね…。これは結構怖いことだと思います。
民主主義を構成する国民が結構な割合で反民主主義的な思想を持ってるんですから。
ともかくですね。
民主主義の定義の範囲にもよるんですけど、民主主義の本質が議論と言えるかというとやっぱり言えないんです。
確かにある範囲に限定すれば民主主義の本質は議論と言えるかもしれない。
でも民主主義の下なら全てが議論で解決できるか、と言うとそうではないんですよね。
上の例の通り。民主主義って思想自体が「概念」なのであらゆるところに存在できる。
ある意味においては正しくても、本質とは到底言えない。
それが私の言いたかったことなんです。
民主主義が難しい、と言ったのはあらゆる事に対して民主主義が根付くからなんです。
そしてその全てが民主主義の根幹とはなり得ないんですよね。
経済の世界で言わせるなら民主主義の根幹は税金に尽きるそうです。
では法学の世界では?と言うと、まあ税金ではないですよね。
明治憲法時代の民主主義は非常に制限されていた。と言う言葉にもあるように
部分的な民主主義っていうのが簡単にできてしまう。
全てを総合的に絡めて民主主義といえるのか、はたまた一部だけを取り出して民主主義といえるのか、
この線引きは非常に曖昧なんですよ。
議論の論点や個人の主観、あらゆる状況に応じて民主主義の定義範囲が変わるから。
私が民主主義の本質は議論ではない、と言った理由の一つはそう言う理由なんです。
そしてもう一つ理由、の話ですがこれは逆説の日本史に書いてある通り。
例えばの話ですが
「ドイツ(死刑廃止の国)で連続通り魔事件が起こった。幸いにして犯人は捕まったが国民は全員が死刑にすべきと叫んでいる。
裁判所でも犯人の死刑が議論され、やがて全会一致で死刑が議決された。」
これは民主主義なんでしょうか?と言うと、やっぱり違うんですよね。
確かに議論の末の結果なんですけど、だからと言って事後法が許されるわけがない。
こんな事認めてしまっては思想としてすごく危険なんですよね。「何を以って死刑になるかの線引きが不明瞭」なんですから。
でも実際こういう考えを持つ人がすごく多いんですよね…。これは結構怖いことだと思います。
民主主義を構成する国民が結構な割合で反民主主義的な思想を持ってるんですから。
ともかくですね。
民主主義の定義の範囲にもよるんですけど、民主主義の本質が議論と言えるかというとやっぱり言えないんです。
確かにある範囲に限定すれば民主主義の本質は議論と言えるかもしれない。
でも民主主義の下なら全てが議論で解決できるか、と言うとそうではないんですよね。
上の例の通り。民主主義って思想自体が「概念」なのであらゆるところに存在できる。
ある意味においては正しくても、本質とは到底言えない。
それが私の言いたかったことなんです。
No title
あ、誤解無きように言っておきますと
私も議論自体は民主主義を実行する上で大事なツールだと思ってます。
私も議論自体は民主主義を実行する上で大事なツールだと思ってます。
最近何となく感じたり、はたまた実感したりするのですが。
どんな人間にも、必ず「囁くモノ」が憑いているような気がしてなりません。
他人と対峙するときに、それはこう囁くのです。
「オマエはこの相手に対して~する権利があるのだ。
だから~を行使していい。
それを行使することによって、オマエは悲しみや罪悪感を感じるかもしれない。
しかし、我がその悲しみや罪悪感を注ぎ受けてやろう。喰らってやろう。
オマエは何も感じる必要はなく、ただただ、オマエの信じるままに、
自信を持って~を為せ。」
コレに喰いつかれて、振りほどくことのできない脆弱な人間は、
「やたらと大声を上げる」、
「相手の言うことを聞かずに持論ばかり正当化する」。
そういう人間は纏っている空気が何だか違うように思えます。
何が言いたいのかというと、事業仕分けの言い合いの現場、ほとんどの人間が
コレに喰い憑かれているように見えた……。
あれは議論の場ではないな。なぜに皆、あの囁きに勝てないんだろうか。
考えてみれば、議論の方法って教育されてないような気がします。
会社入って初めて受けましたもんね。HOW to Discussion。
小学校あたりでちゃんと教育しておけば、イジメとかも激減すると思うんだけれど。
どんな人間にも、必ず「囁くモノ」が憑いているような気がしてなりません。
他人と対峙するときに、それはこう囁くのです。
「オマエはこの相手に対して~する権利があるのだ。
だから~を行使していい。
それを行使することによって、オマエは悲しみや罪悪感を感じるかもしれない。
しかし、我がその悲しみや罪悪感を注ぎ受けてやろう。喰らってやろう。
オマエは何も感じる必要はなく、ただただ、オマエの信じるままに、
自信を持って~を為せ。」
コレに喰いつかれて、振りほどくことのできない脆弱な人間は、
「やたらと大声を上げる」、
「相手の言うことを聞かずに持論ばかり正当化する」。
そういう人間は纏っている空気が何だか違うように思えます。
何が言いたいのかというと、事業仕分けの言い合いの現場、ほとんどの人間が
コレに喰い憑かれているように見えた……。
あれは議論の場ではないな。なぜに皆、あの囁きに勝てないんだろうか。
考えてみれば、議論の方法って教育されてないような気がします。
会社入って初めて受けましたもんね。HOW to Discussion。
小学校あたりでちゃんと教育しておけば、イジメとかも激減すると思うんだけれど。
No title
>「反対したいけれど私は間違っているので正しいあなたを論破できません。」
の逆も考えられるのではないでしょうか?
「反対しているけれどあなたは私から見て根本的に間違っているのであなたを論破できません。」
ある討論番組でこんな発言がありました。
「中国人は我々と住んでいる世界が違うから我々の常識は通用しない。」
でした。
つまり中国人は中華思想の元に中国が世界の中心であり先頭であるから、世界の常識は中国人によって作られるべきものだとしたものでした。
我々から見ればそれは根本的に間違っています。しかし彼らの中では我々の非常識が常識になりうるのです。
そして彼らと私達(我々)はその思想の起源が違います。
思想の起源が違うから議論は破錠し本来反論、論破できる内容の言論も通用しなくなります。
そしてそれら論破でない現象を打破するためには起源を論破・否定しなければなりません。
これこそ膨大なエネルギーが必要です。
言論の場では収集できなかもしれません。
議論の場では思想の起源が間違った相手が居ます。我々の起源の否定に対して彼らはその起源を否定します。もはら泥沼、水掛け論です。
では彼らの起源を否定するにはどうしたらよいのでしょうか?
それは力です。武力です。戦争です。
戦争によって彼らの思想の起源を根絶やしにし。それを断つのです。
しかしそれは相手側も同じです。我々の思想の起源を根絶やしにするれば自分達の常識を通すことが出来るのです。
思想の起源が泉だとするならば、言論はその場を行きかうただの風です。風ではどんな暴風でも湧き出る泉の水をせき止めたりはできません。力=岩が必要なのです。岩を泉に投げ込めば水の流れ、湧き水をせき止める事ができます。
の逆も考えられるのではないでしょうか?
「反対しているけれどあなたは私から見て根本的に間違っているのであなたを論破できません。」
ある討論番組でこんな発言がありました。
「中国人は我々と住んでいる世界が違うから我々の常識は通用しない。」
でした。
つまり中国人は中華思想の元に中国が世界の中心であり先頭であるから、世界の常識は中国人によって作られるべきものだとしたものでした。
我々から見ればそれは根本的に間違っています。しかし彼らの中では我々の非常識が常識になりうるのです。
そして彼らと私達(我々)はその思想の起源が違います。
思想の起源が違うから議論は破錠し本来反論、論破できる内容の言論も通用しなくなります。
そしてそれら論破でない現象を打破するためには起源を論破・否定しなければなりません。
これこそ膨大なエネルギーが必要です。
言論の場では収集できなかもしれません。
議論の場では思想の起源が間違った相手が居ます。我々の起源の否定に対して彼らはその起源を否定します。もはら泥沼、水掛け論です。
では彼らの起源を否定するにはどうしたらよいのでしょうか?
それは力です。武力です。戦争です。
戦争によって彼らの思想の起源を根絶やしにし。それを断つのです。
しかしそれは相手側も同じです。我々の思想の起源を根絶やしにするれば自分達の常識を通すことが出来るのです。
思想の起源が泉だとするならば、言論はその場を行きかうただの風です。風ではどんな暴風でも湧き出る泉の水をせき止めたりはできません。力=岩が必要なのです。岩を泉に投げ込めば水の流れ、湧き水をせき止める事ができます。
No title
>なるほどー
ようやく分かりました。
「民主主義の本質は議論」というのを
「議論の結果であれば何をしてもいい、議論が最高権力」という感じの意味で捉えられていませんか?
そういう意味ではなく、ただ単純に
「民主主義が成り立つ上で絶対欠かせない要素」
「それがなければ民主主義ではないものは何か」という意味で「議論」としただけです^^;
その例ですが議論が本質では無いという逸話というより多数決の暴力を諌める内容に聞こえますね。
事後法を議決によって認めてはいけない、
議論の結果であろうとも法を犯してはならない
というだけの話であって
どの民主主義であってもやはりそこになければならないのは議論なんですよ。
議論なく物事が決められるなら他の全ての要素が完璧に揃っていたとしても
それは民主主義ではない訳で。
例えば経済はおろか法すら持たない原始人であっても
ボスの一存ではなくみんなで議論して答えを決めればそれは紛れもなく「民主主義」ですよね。
しかし法が完璧に運用され経済発達し人権も守られ全てが完璧文句など何も無い、
しかし全てを決定するのはマザーコンピューター。
これは「民主主義」ではないわけです。
私が言っていた「民主主義の本質は議論」
というのはその程度の意味です^^
>な・・なんかスピリチュアルですね^^;
纏ってる空気が違うのは本当にそう思います。
あれは必死なんですよ。
論破されたり負けたりすると「答えに置いた本質」が揺らぐ。
自分の評価が落ちる、大損する者の必死さです。
答えを守るために必死になって「正意」をほったらかしにしてるからおかしいんですね。
議論の授業は本当に小学校一年からすべきです。
というよりまず大人が分かっていないので
全国民に「議論のルール」を配布すべきだと思います。
ようやく分かりました。
「民主主義の本質は議論」というのを
「議論の結果であれば何をしてもいい、議論が最高権力」という感じの意味で捉えられていませんか?
そういう意味ではなく、ただ単純に
「民主主義が成り立つ上で絶対欠かせない要素」
「それがなければ民主主義ではないものは何か」という意味で「議論」としただけです^^;
その例ですが議論が本質では無いという逸話というより多数決の暴力を諌める内容に聞こえますね。
事後法を議決によって認めてはいけない、
議論の結果であろうとも法を犯してはならない
というだけの話であって
どの民主主義であってもやはりそこになければならないのは議論なんですよ。
議論なく物事が決められるなら他の全ての要素が完璧に揃っていたとしても
それは民主主義ではない訳で。
例えば経済はおろか法すら持たない原始人であっても
ボスの一存ではなくみんなで議論して答えを決めればそれは紛れもなく「民主主義」ですよね。
しかし法が完璧に運用され経済発達し人権も守られ全てが完璧文句など何も無い、
しかし全てを決定するのはマザーコンピューター。
これは「民主主義」ではないわけです。
私が言っていた「民主主義の本質は議論」
というのはその程度の意味です^^
>な・・なんかスピリチュアルですね^^;
纏ってる空気が違うのは本当にそう思います。
あれは必死なんですよ。
論破されたり負けたりすると「答えに置いた本質」が揺らぐ。
自分の評価が落ちる、大損する者の必死さです。
答えを守るために必死になって「正意」をほったらかしにしてるからおかしいんですね。
議論の授業は本当に小学校一年からすべきです。
というよりまず大人が分かっていないので
全国民に「議論のルール」を配布すべきだと思います。
No title
書き込んでる間に書きこまれちゃったので
返信の順番がずれちゃってますが
文脈から読み取ってください^^;
返信の頭に名前書くべきでしたね・・・・
>「反対しているけれどあなたは私から見て根本的に間違っているのであなたを論破できません。」
この場合人は黙って離れるか
その根本的な間違いを指摘するだけです。
もちろんそれで相手が言うことを聞くかどうかは分かりません。
論破されてもなかった事にするのが答えに本質をおいた人間の末期症状なので・・・
その中国人の例も宗教家と同じで「答え」に本質を置いているものというだけです。
中国人も思想の起源は同じ、「より良くより正しくという意思」が一番最初にあります。
これはどんな思想の持ち主であろうと人間である限り代わりません。
もちろん相手が「答え」にしがみつくばかりで
「正意」に基づいて歩み寄ろうとしない場合、
それで互いに無視しあうわけにもいかない場合は
殺しあうしかないですね。
返信の順番がずれちゃってますが
文脈から読み取ってください^^;
返信の頭に名前書くべきでしたね・・・・
>「反対しているけれどあなたは私から見て根本的に間違っているのであなたを論破できません。」
この場合人は黙って離れるか
その根本的な間違いを指摘するだけです。
もちろんそれで相手が言うことを聞くかどうかは分かりません。
論破されてもなかった事にするのが答えに本質をおいた人間の末期症状なので・・・
その中国人の例も宗教家と同じで「答え」に本質を置いているものというだけです。
中国人も思想の起源は同じ、「より良くより正しくという意思」が一番最初にあります。
これはどんな思想の持ち主であろうと人間である限り代わりません。
もちろん相手が「答え」にしがみつくばかりで
「正意」に基づいて歩み寄ろうとしない場合、
それで互いに無視しあうわけにもいかない場合は
殺しあうしかないですね。
No title
すみません、ボケてます。
順番間違って無いです。ごめんなさいOTL
順番間違って無いです。ごめんなさいOTL
コメントの投稿
マンガ、アニメは悪とレッテルを貼ってますね
二次元規制教デスね
凶悪事件をマンガ、アニメ、ゲームせいにしたがるのは何かのせいにして安心感がほしいからと思う
その手人々(規制賛成派)全員がOKを出す規制が設立実行されて規制対象が存在しなくなったあと凶悪事件が起きたら今度は何のせいにすのかな