スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
根っこを正さなきゃならんと思うんです。
世の中問題は数あれど
それを正すにはどうすればいいのか。
「場当たり的に一つ一つ」も一つの手ですがそれでは対症療法にしかなりません。
国を人間に例えるなら薬を飲んだり手術をしたりということ。
「そもそも病気にならないように健康状態を底上げ」しなければ
手術と薬でズタズタになってしまいます。
ウヨサヨ立場信条宗教を超えて根本的な何かを改善せなねばならんのです。
問題解決をするには根源を正さなければいけません。
根源を正すには根源が何かを知らなければなりません。
根源が何かを知るためには・・・根源を知る・・・といったら哲学?
あーそうか。哲学ってそのための学問だったのか。
俺哲学の授業なんか受けたことねーけど。
まずとりあえず一切合切忘れて純粋に根源を見出しそこから順番に
正しい論理を辿っていき現状の日本の病理の原因や、改善すべき点を探ってみようと思います。
いや、別に宇宙から悪い電波受信してるわけではないのでご安心ください。
まず徹底的に根源から行きましょう。
あまねく全ての中で唯一絶対といえるもの。
それは「我思うゆえに我あり」
哲学の第一原理(だっけ?)だそうです。
あなたは今このブログを読んでいますが本当にそうですか?
マトリックス的な機械に寝かされてそういう夢を見せられてるだけで無いとは言い切れません。
実はあなたは神さまで誰も居ない虚空で一人夢を見ているだけで無いとは言い切れません。
こんな感じで疑えるものを全て疑いつくした結果、最後に
「自分という意思は存在するのか?」という疑いが残ります。
しかし疑った瞬間「自我の存在を疑っている自我」の存在が証明されてしまいます。
なので「我思うゆえに我あり」は疑いようが無い、
疑うことで逆に存在が証明されてしまう絶対的に正しい唯一の原理です。
これは逆を言えば世の中で絶対確実のものは「自我の存在だけしかない」ということです。
そのほかの全ては仮定。仮のもの。
新たな事実が浮上すれば覆されてしまうものだということです。
絶対正しいと信じた主義主張も新たな情報が入れば根底から覆されてしまう「仮」のものですし
世界の存在そのものさえもあなたの元にマトリックスからの使者が現れれば覆されてしまう「仮」のものです。
これは後々重要な意味を持つので知識ではなく実感として覚えておくべきことです。
まずここに一本軸を立て思考の根本として固定しましょう。
「自我の存在以外に絶対はありえず、
それ以外は全て仮定、仮のものである」
絶対正しい根源、シャツのボタンの一つ目なのでしっかり押さえなければなりません。
さていつまでも根源的過ぎて宗教家と紙一重のレベルの話をしていても仕方ありません。
人間社会のレベルに入ります。
ここからが本番です。
人間社会では人間社会が存在するということは大前提なので
存在すると「仮定」した上で話を進めることになります。
「仮」とはいえ「定めた」のでこの後人間社会の存在そのものに対する疑問は持ってはいけません。
話が進まないからです。
マトリックスからの使者が来たなら別ですが。
次は人間社会で絶対的に正しいことを見つけそれを軸にしなければなりません。
しかし人間の世界は相対的、
相対的な全ての中で絶対的に正しいことを見つける。
はてこれは困難です。
資本主義でしょうか。共産主義でしょうか。神でしょうか。ウヨサヨでしょうか。
どれもこれも人間社会で必ずしも正しいとはいえません。
当然、それらは全て人が生きて経験してきた中で得た「答え」の一つに過ぎないからです。
人間社会で絶対的に正しいもの。
それは末端の「答え」ではなくその答えにたどり着くための出発点、
「より正しく、より良い結果を導こうという意思」そのものです。
「より間違ったより悪い結果を導こうという意思」も考えられますが
人間社会ではこれは正しくありません。
人間社会では人間の生きる意志、より「良く」なりたいという根本的な欲求と意思が根底にあり
それに沿う「より正しくより良くという意思」は「人間社会の中では」絶対的に正しいのです。
誤解の無いようにはっきりと書きますが人間社会の中で絶対的に正しいのは
「より正しく、より良い結果を導こうという意思」だけであって
その意思によって導き出された「答え」は絶対ではありません。
なぜなら人はこの世の全てを知り尽くしては居ません。
導き出された「答え」は「現在自分が持っている情報」という
極端に限定された条件の中で導き出された「仮定」の答えでしかありません。
新たな情報、新たな視点が加われば当然
根底から覆され変更しなければならない仮定のものだと言うことです。
どんなに絶対と思えても絶対ではありません。
絶対なのは「我思うゆえに我あり」唯一つです。
人間社会に限定すれば「より正しくより良くという{意思}」唯一つです。
それ以外の何かを絶対だと思ったならそれは100%勘違いであり妄信です。
二つ目の軸はここに立て固定しましょう。
「人間社会で」絶対的に正しい
「より正しい答えを、より良い結果を導き出そうという意思」
長いので「正意」と略します。
今後「正意」というときは上記の意味で使用します。
この意思「正意」こそが人間社会であらゆる判断の軸になるべきもの。
明確に固定されねばならない「軸」です。
「正意」から導かれた「答え」に軸を移してはなりません。
「答え」は常に間違っている可能性を多分に秘めた「仮」だからです。
いや十中八九間違っているでしょう。
所詮一人の人間が現在持っている情報「だけ」で導き出した答えなんですから
間違っていないほうがおかしい。
間違っているものを軸にしてはおかしな人間になってしまいます。
次にその「正意」に従い、より正しい答え、より良い結果を導く方法に進みます。
人一人が持つ情報量など高が知れています。
常に知らないことのほうが多い。圧倒的に多い。絶望的に多い。
自分が知らないということすら知らなかったりします。
また一人では一人分の視点しか持てません。
別の視点や新たな情報を持つには他人が必要です。
互いの意見や情報を共有し間違いを正しつつ
多方面から検証し「答え」を「より正しい答え」に修正し昇華し共有する協力作業があります。
そうです。それが議論です。
はて・・・
しかしこの日本で議論というものは正しく行われているでしょうか。
国会でもネットでも酒の場でも
互いの意見や情報を共有し間違いを正しつつ
多方面から検証し「答え」を「より正しい答え」に修正し昇華し共有する協力作業
が行われているでしょうか。
小さな会社の会議などではしっかり行われてたりしますが
国会でそんな美しいもの見たこと無いなぁ・・・
2ちゃんレベルというか子供のケンカ?
「互いの意見や情報を共有し間違いを正しつつ
多方面から検証し「答え」を「より正しい答え」に修正し昇華し共有する協力作業」
これに当てはまらないならそれは議論ではありませんケンカです。
討論という形式の議論もありますが
これはどちらか、あるいは両方が「正意」に軸を置かない者である場合の次善策です。
議論は協力作業です。
参加する全員が「正意」に軸をおいていない限り成り立ちません。
ちなみに。
民主主義国家の本質は「議論」です。
・・・・・ちょっと日本の病理の根源が見えてきた感じがしませんか?
続くっ!!!
それを正すにはどうすればいいのか。
「場当たり的に一つ一つ」も一つの手ですがそれでは対症療法にしかなりません。
国を人間に例えるなら薬を飲んだり手術をしたりということ。
「そもそも病気にならないように健康状態を底上げ」しなければ
手術と薬でズタズタになってしまいます。
ウヨサヨ立場信条宗教を超えて根本的な何かを改善せなねばならんのです。
問題解決をするには根源を正さなければいけません。
根源を正すには根源が何かを知らなければなりません。
根源が何かを知るためには・・・根源を知る・・・といったら哲学?
あーそうか。哲学ってそのための学問だったのか。
俺哲学の授業なんか受けたことねーけど。
まずとりあえず一切合切忘れて純粋に根源を見出しそこから順番に
正しい論理を辿っていき現状の日本の病理の原因や、改善すべき点を探ってみようと思います。
いや、別に宇宙から悪い電波受信してるわけではないのでご安心ください。
まず徹底的に根源から行きましょう。
あまねく全ての中で唯一絶対といえるもの。
それは「我思うゆえに我あり」
哲学の第一原理(だっけ?)だそうです。
あなたは今このブログを読んでいますが本当にそうですか?
マトリックス的な機械に寝かされてそういう夢を見せられてるだけで無いとは言い切れません。
実はあなたは神さまで誰も居ない虚空で一人夢を見ているだけで無いとは言い切れません。
こんな感じで疑えるものを全て疑いつくした結果、最後に
「自分という意思は存在するのか?」という疑いが残ります。
しかし疑った瞬間「自我の存在を疑っている自我」の存在が証明されてしまいます。
なので「我思うゆえに我あり」は疑いようが無い、
疑うことで逆に存在が証明されてしまう絶対的に正しい唯一の原理です。
これは逆を言えば世の中で絶対確実のものは「自我の存在だけしかない」ということです。
そのほかの全ては仮定。仮のもの。
新たな事実が浮上すれば覆されてしまうものだということです。
絶対正しいと信じた主義主張も新たな情報が入れば根底から覆されてしまう「仮」のものですし
世界の存在そのものさえもあなたの元にマトリックスからの使者が現れれば覆されてしまう「仮」のものです。
これは後々重要な意味を持つので知識ではなく実感として覚えておくべきことです。
まずここに一本軸を立て思考の根本として固定しましょう。
「自我の存在以外に絶対はありえず、
それ以外は全て仮定、仮のものである」
絶対正しい根源、シャツのボタンの一つ目なのでしっかり押さえなければなりません。
さていつまでも根源的過ぎて宗教家と紙一重のレベルの話をしていても仕方ありません。
人間社会のレベルに入ります。
ここからが本番です。
人間社会では人間社会が存在するということは大前提なので
存在すると「仮定」した上で話を進めることになります。
「仮」とはいえ「定めた」のでこの後人間社会の存在そのものに対する疑問は持ってはいけません。
話が進まないからです。
マトリックスからの使者が来たなら別ですが。
次は人間社会で絶対的に正しいことを見つけそれを軸にしなければなりません。
しかし人間の世界は相対的、
相対的な全ての中で絶対的に正しいことを見つける。
はてこれは困難です。
資本主義でしょうか。共産主義でしょうか。神でしょうか。ウヨサヨでしょうか。
どれもこれも人間社会で必ずしも正しいとはいえません。
当然、それらは全て人が生きて経験してきた中で得た「答え」の一つに過ぎないからです。
人間社会で絶対的に正しいもの。
それは末端の「答え」ではなくその答えにたどり着くための出発点、
「より正しく、より良い結果を導こうという意思」そのものです。
「より間違ったより悪い結果を導こうという意思」も考えられますが
人間社会ではこれは正しくありません。
人間社会では人間の生きる意志、より「良く」なりたいという根本的な欲求と意思が根底にあり
それに沿う「より正しくより良くという意思」は「人間社会の中では」絶対的に正しいのです。
誤解の無いようにはっきりと書きますが人間社会の中で絶対的に正しいのは
「より正しく、より良い結果を導こうという意思」だけであって
その意思によって導き出された「答え」は絶対ではありません。
なぜなら人はこの世の全てを知り尽くしては居ません。
導き出された「答え」は「現在自分が持っている情報」という
極端に限定された条件の中で導き出された「仮定」の答えでしかありません。
新たな情報、新たな視点が加われば当然
根底から覆され変更しなければならない仮定のものだと言うことです。
どんなに絶対と思えても絶対ではありません。
絶対なのは「我思うゆえに我あり」唯一つです。
人間社会に限定すれば「より正しくより良くという{意思}」唯一つです。
それ以外の何かを絶対だと思ったならそれは100%勘違いであり妄信です。
二つ目の軸はここに立て固定しましょう。
「人間社会で」絶対的に正しい
「より正しい答えを、より良い結果を導き出そうという意思」
長いので「正意」と略します。
今後「正意」というときは上記の意味で使用します。
この意思「正意」こそが人間社会であらゆる判断の軸になるべきもの。
明確に固定されねばならない「軸」です。
「正意」から導かれた「答え」に軸を移してはなりません。
「答え」は常に間違っている可能性を多分に秘めた「仮」だからです。
いや十中八九間違っているでしょう。
所詮一人の人間が現在持っている情報「だけ」で導き出した答えなんですから
間違っていないほうがおかしい。
間違っているものを軸にしてはおかしな人間になってしまいます。
次にその「正意」に従い、より正しい答え、より良い結果を導く方法に進みます。
人一人が持つ情報量など高が知れています。
常に知らないことのほうが多い。圧倒的に多い。絶望的に多い。
自分が知らないということすら知らなかったりします。
また一人では一人分の視点しか持てません。
別の視点や新たな情報を持つには他人が必要です。
互いの意見や情報を共有し間違いを正しつつ
多方面から検証し「答え」を「より正しい答え」に修正し昇華し共有する協力作業があります。
そうです。それが議論です。
はて・・・
しかしこの日本で議論というものは正しく行われているでしょうか。
国会でもネットでも酒の場でも
互いの意見や情報を共有し間違いを正しつつ
多方面から検証し「答え」を「より正しい答え」に修正し昇華し共有する協力作業
が行われているでしょうか。
小さな会社の会議などではしっかり行われてたりしますが
国会でそんな美しいもの見たこと無いなぁ・・・
2ちゃんレベルというか子供のケンカ?
「互いの意見や情報を共有し間違いを正しつつ
多方面から検証し「答え」を「より正しい答え」に修正し昇華し共有する協力作業」
これに当てはまらないならそれは議論ではありませんケンカです。
討論という形式の議論もありますが
これはどちらか、あるいは両方が「正意」に軸を置かない者である場合の次善策です。
議論は協力作業です。
参加する全員が「正意」に軸をおいていない限り成り立ちません。
ちなみに。
民主主義国家の本質は「議論」です。
・・・・・ちょっと日本の病理の根源が見えてきた感じがしませんか?
続くっ!!!
コメント
No title
No title
なるほどー書籍紹介ありがとうございます。
早速明日買いに行ってきます。
で、前半の民主主義は~の分なんですが
やはりちょっと理解できませんでした^^;
どの辺りが危険なのかもちょっと分からなかったのでもしよろしければ補足説明をお願いいたします。(紹介された書籍に書いてあるようでしたら大丈夫です。)
本質というものは全て一言二言であらわせるものだと思うのです。
どんなものにも多種多様な要素があるのはもちろんですがその本質、「これが無ければそれではない」と言えるものはやはりシンプルで明確なはずなんです。
民主主義に絶対に無ければならないもの、
これが無ければ成り立たない意味が無いというものはやはり議論だと思うのですがいかがでしょう。
早速明日買いに行ってきます。
で、前半の民主主義は~の分なんですが
やはりちょっと理解できませんでした^^;
どの辺りが危険なのかもちょっと分からなかったのでもしよろしければ補足説明をお願いいたします。(紹介された書籍に書いてあるようでしたら大丈夫です。)
本質というものは全て一言二言であらわせるものだと思うのです。
どんなものにも多種多様な要素があるのはもちろんですがその本質、「これが無ければそれではない」と言えるものはやはりシンプルで明確なはずなんです。
民主主義に絶対に無ければならないもの、
これが無ければ成り立たない意味が無いというものはやはり議論だと思うのですがいかがでしょう。
No title
追記
とりあえず読んでからまた考えますね。
とりあえず読んでからまた考えますね。
No title
まあ端的に言うなら「いかなる議論によっても法律も基本的人権も侵されないし、侵されてはいけない」ということです。
詳しくは本で!
詳しくは本で!
No title
押忍了解です^^
No title
漫画家さんは漫画を描くことがお仕事なのに
バーピィさんはよくここまで法学部で学ぶようなことをご存知ですね。文章もわかりやすくて、説得力も十分でとても感心しました。
私は司法試験崩れなんですが、
民主主義の本質は、バーピィさんのおっしゃるように
議論が本質であることに賛同しています。
上の人は憲法論的には間違ってますね。
国民の個人の尊重(憲法13条)を頂点として
それを守るために国家分立があり、
同じく、個人の尊重ゆえに君主主権でなく、
より個人の尊重を充足しやすい国民主権が導かれます。
そして主権者たる国民が三権を民主的にコントロールするために国会に国民の代表である議員を選挙において自らの意思で選びます。これを民主主義と言います。
その民主主義を正しく機能させるためには
バーピィさんのおっしゃる議論が不可欠であります。
なぜなら、上の方もおっしゃってるが、個人の価値観には多様性があることから、議論を通じてもっとも正しいと思われることを選択して政治を動かしていく必要があるわけですから。
そんなわけで、私はバーピィさんのおっしゃっている
「民主主義の本質は議論である」ということに賛同いたします。
もし上の方が民主主義の本質は個人の尊重であるとするならそれは誤りです。
個人の尊重が満たされるのであれば、君主主権でも構わないのですから、それ自体が民主主義の本質とはなりません。
長くなってしまいましたが、バーピィさんの心身がともに健康であることを願いながら新作を発表されるのを楽しみにしています。それでは~。
バーピィさんはよくここまで法学部で学ぶようなことをご存知ですね。文章もわかりやすくて、説得力も十分でとても感心しました。
私は司法試験崩れなんですが、
民主主義の本質は、バーピィさんのおっしゃるように
議論が本質であることに賛同しています。
上の人は憲法論的には間違ってますね。
国民の個人の尊重(憲法13条)を頂点として
それを守るために国家分立があり、
同じく、個人の尊重ゆえに君主主権でなく、
より個人の尊重を充足しやすい国民主権が導かれます。
そして主権者たる国民が三権を民主的にコントロールするために国会に国民の代表である議員を選挙において自らの意思で選びます。これを民主主義と言います。
その民主主義を正しく機能させるためには
バーピィさんのおっしゃる議論が不可欠であります。
なぜなら、上の方もおっしゃってるが、個人の価値観には多様性があることから、議論を通じてもっとも正しいと思われることを選択して政治を動かしていく必要があるわけですから。
そんなわけで、私はバーピィさんのおっしゃっている
「民主主義の本質は議論である」ということに賛同いたします。
もし上の方が民主主義の本質は個人の尊重であるとするならそれは誤りです。
個人の尊重が満たされるのであれば、君主主権でも構わないのですから、それ自体が民主主義の本質とはなりません。
長くなってしまいましたが、バーピィさんの心身がともに健康であることを願いながら新作を発表されるのを楽しみにしています。それでは~。
No title
どもども
憲法的にはそういう解釈になるんですか。
なるほど
学校の授業なんかほとんど落書きしてたので
そういう憲法何条がどうとかそういうことを言えないんですよねー・・・
ちょっと勉強しなおさにゃなりませんね。
励ましありがとうございます^^
憲法的にはそういう解釈になるんですか。
なるほど
学校の授業なんかほとんど落書きしてたので
そういう憲法何条がどうとかそういうことを言えないんですよねー・・・
ちょっと勉強しなおさにゃなりませんね。
励ましありがとうございます^^
コメントの投稿
でも、理屈から言うと民主主義の本質って議論じゃないんですよ。
(実際よく陥りやすいらしいんですけどね…)
民主主義って難しいんですよね。
民主主義とは多元主義であり法治主義であり基本的人権の尊重であり…。
とてもとても一言で語れるものじゃないんですよね。
でここを間違えると思想としてはすごく危険なんですよね…。
まあそんな事を私が言っても理解できないかもしれません。
私にできるとすれば参考となる本を紹介する事ぐらいなので今回は本を紹介させていただこうと思います。
竹中平蔵 著
「経済ってそういうことだったのか会議」
ちょっと古いですが2時間ぐらいで読めます。
経済を突き詰めると必ず民主主義に行き着くのでマジお勧めです。
井沢元彦 著
「逆説の日本史」
1巻に日本の民主主義は和の意識の履き違えだと書いています。
これをよく間違える人が実に多い。これは私もそう思います。
2巻以降はお好みで。
エリヤフ・ゴールドラット 著
「ザ・ゴール」もお勧めです。
これは議論の具体的手法について書いてます。
win-winの考え方はぜひ小学校から教育して欲しいですね。
多分これは一番役に立つはず。
ざっとこんな感じ。
あといろいろお勧めの本があるんですが、
私の場合ともすると経済の本だらけになってしまうかも知れませんのでここらで控えさせていただきます。